〈生き方のstyle〉

生き方は、違っていい。違いこそ、豊かさ。自分に還れば、皆違う。自分を変えようと旅をした。旅は瞑想に導き、僕は僕に還ることにした。

【氣】とは何か?

 

瞑想やヨガをしていると、チャクラや丹田という言葉に触れる機会が多い。

 

世界を旅する中で、民族の中に太古から続いている儀式や踊り、そういったものに触れ、惹かれていった。

見学し、参加する中で、どの儀式や風習の中にも共通点があることに氣がついた。


その共通点の一つが、瞑想であった。


瞑想を追究することは、人間を知る手がかりとなり、自分をひも解く鍵となるだろう。

そんな直観に突き動かされ、瞑想を追究した。


貪るように書籍をもとめ、書かれていることを実践しようとした。

そこには当然のように、チャクラや丹田という言葉が軒を連ね、初めのうちは大いに理解に苦しんだが、実践を通して、自分なりに少しずつ噛み砕いていった。

時には、身を実験台とし捧げるような実践もあった。

 

チャクラや丹田を語る前に、【氣】について自分なりの理会を言葉にしておきたいと思う。


 

インドでは、プラーナと呼ばれ、日本や中国では太古より【氣】と呼ばれ親しまれている。

意識的になれば、氣を使った言葉がとても多いことにも氣がつく。


空氣・天氣・氣持ち・氣が強い・雰囲気・熱氣・などなど、日常に氣は充満しているようだ。

 

しかし、いざ氣を感じるかという話になると、「全く分からない」と言う方がとても多い。

何を隠そう、僕自身もそう言う一人であったことは紛れもない事実だ。

 

感じなかった僕が、感じるようになるまでの道は、多くの方に氣を感じていただける道だとも思っている。

そういった意味も込めて、自分の理会を深めたい思いも込めて、今回は氣について書こうと思う。

 

今僕が感じていることをそのまま言葉にすれば、「誰もが氣を感じている」ということになる。


ただ、当たり前すぎて、もしくは感じることで消費する物が多すぎて、感じないようにしているということだと思っている。

 

そもそも氣とは、エネルギーのことだ。

エネルギーには、いくつか種類がある。

中学校の勉強を思い出してみるとエネルギーは、熱エネルギー、位置エネルギー、運動エネルギー、など他にも多くの種類があるようだ。


前述した「誰もが氣を感じている」という例を挙げると、ゆっくりと車が隣を通り過ぎてゆくときと、ものすごい早さで隣を駆け抜けてゆくときの感覚。


マッチの炎に近づいたときの感覚と、燃え盛るキャンプファイヤーに近づいたときの感覚。

さらには、天井から吊り下がった大きなシャンデリアを見たときの感覚と、床に置かれたシャンデリアを見たときの感覚。

 

それぞれ、運動エネルギー、熱エネルギー、位置エネルギーを感覚的に例に例えた。

どの場合に置いても、感じ方は大いに違うはず。

 

僕たちは、エネルギーを確かに感じている。

吊り下がる大きなシャンデリアを見て、思わず「すごい」と声を上げるのは、そのシャンデリアの持つ位置エネルギーも同時に感じているからに他ならない。

 

人間は、エネルギー感知体としてのボディを誰もが持っていると僕は思っている。

 

感じてはいるが、強い思い込みの幕が張られ、さも当然のこことして処理してしまっている場合が大いにある。

 

また常に敏感に感じ取りすぎることで、揺れ動く心に疲弊してしまい、わざと感じないように鈍感にしていったという過程もあると感じている。

 

ではもう一度、氣を感じる感覚を取り戻すためにはどうしたらいいのか。

 

そこに瞑想が登場して来る。

 

呼吸を長く引き延ばしてゆくと、脳波は自然とゆったりとしたα波に近づいてゆく。

 

これは、波打っていた湖面が静まり、ピンと張りつめてゆくイメージと近いと感じている。

 

波打っていては、木の葉が湖面に落ちたことにも、湖はきっと氣がつかない。

 

一つの波もない湖面に、木の葉が落ちる。

湖面には、模様が生まれ、湖は木の葉が落ちたことに氣がついている。

そんな状態だと思っていただいて、差し支えないと思う。

 

人間にも同じことが言えると感じている。

 

瞑想状態で、脳波もゆるやかになり、意識が広がってゆくと様々なことに氣がつくようになる。

今まで氣がつかなかったことに、氣がつくようになってゆく。

そして、氣の世界にも氣づいてゆく。

そんな流れがあるように感じている。

 

蛇足であるが、この氣づき(アウェアネス)こそ、瞑想の一つの大きな恩恵だと感じている。

「氣がついた瞬間から、問題は自然と解決が始まってゆく」という言葉の表すように、氣づきがさまざまな問題を解決に導くのではないかと思っている。

 

 

氣に敏感になってゆくと、チャクラははっきりと感じられるようになる。

 

チャクラは、人体の神経叢(神経の集る束)やホルモン線と位置を同じくしている場合が多く、体の中で重要な場所にある。

 

それぞれのチャクラは、氣を感じ取れるようになって来ると、その位置が朧げながら掴めて来るが、仙骨の真向かいにある第2チャクラ(スワディシュターナ(因にヒンディ語でスワディシュとは美味しいという意味))は、丹田とも位置を同じくし、意識的に感じにくいチャクラの一つだと感じている。

 

今までの瞑想体験の中で、それぞれのチャクラが大いに活性化し、まさに開くという体験をしてきた。

初めにチャクラが活性化し開いた体験をしたのが、以前少しだけ触れたアヤ・ワスカ体験であり、そこから時間をかけ、多くのチャクラが活性化していった。

 

総てにおいて言えることではないとは思うが、個人的には非常に危険な体験があったり、ものすごく体調を悪化させたり、死がよぎるような思いもチャクラ活性化の中で体験した。

そういった意味からも、闇雲にチャクラについて語ることは普段控えている。

 

伝え方を間違うと、健康を損ねることにも繋がることを体験しているので、こちらで整理しながら体験を交えゆっくりと表現していけたらと思っている。

 

また氣を感じられるようになった後には、チャクラの周りに氣を巡らせる「小周天」と呼ばれる瞑想法を正しく実践すると、健康増進に大いに役立つ。

こちらは、いずれ自分の瞑想・ヨガクラスでも実践していけたらと思っている。

【氣】という日常には触れることの少ない話題を取り上げた。

多くの方に感じていただけるような内容で表現できたらと思っている。

 




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【氣】について、真面目に書こうとしたら、文体も真面目になってしまいました。

かた苦しさを感じさせてしまったら、申し訳ございません。

時々、すごく根のまじめな僕が顔をのぞかせます。

にもかかわらず、最後までお付き合いいただけましたこと、この場を借りて感謝申し上げます。

ありがとうございました。



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