インドエピソード【〜記憶は世代を超える〜】
みなさま、こんにちは。
TAMAKARA YOGA〜魂と体をつなぐyoga〜のクラスを開いています、山崎大です。
瞑想やyogaをインドにおいて学んできました。
どのようなことをしていたのか、何が起こったのか。
インドでのエピソードを綴ってまいります。
ご興味のおありの方、お付き合いいただけたら幸いです。
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世界で一番高い山脈。
ヒマラヤと呼ばれるその尾根は、ユーラシア大陸の背骨のように国々を貫いている。
その大陸の背骨に触れることのできる代表的な国の一つが、インドであった。
インド滞在初期は、南インドで過ごしていた。
どういう訳だろう。
山に行かなければ。
そんな想いが沸々と沸き起こり、氣がつけば北インドへ向かい、長期間滞在することになっていた。
北インド、ガンジス川の畔に小さなリシケシという街がある。
リシとは修行者という意味を持ち、修行者が集る街。
恐らく後からその呼び名が当てられたのだろう。
リシケシに降り立つと、朱色の布を体に巻き付けたサドゥーと呼ばれる修行者が町中に溢れている。
まさに修行者の街なのだ。
遥かインドの地まで、ヨガを学びにきた外国人もとても多い。
僕も数あるヨガを学ぶ外国人の一人として、リシケシのヨガ道場に住み込んでいた。
単純な疑問がわいた。
リシケシにいるヨガの先生は揃いも揃って若い。
道場ではヨガマットを使う。
余談になるが、日本には数万円を超えるヨガマットすらある。
ヨガがもし、悟りへ向かう道ならば、ヨガの先生はまさに仙人のようなおじいちゃんでも良いはずであるし、もしヨガが何千年も前から歴史を持つのであれば、プラスティックでできたヨガマットなど、本来不必要だろう。
「teacher training course 200hours」そう書かれたチラシが街中に張られ、ヨガの先生の資格が取れると謳っていた。
僕は、資格には興味がなかった。
権威に先生だと認めてもらうなんて、まっぴらごめんだった。
そんなものに寄りかかるつもりはなかった。
それよりも、本質に一歩でも近づきたかった。
ここにいるだけでは、本質にはたどり着けない。
焦りにも似たそんな思いをぶら下げたまま、道場で日々をすごした。
数日後、ある日本人男性とあった。
穏やかだが、眼光は鋭い。
武士のようだ。
数十年前にもこの地に滞在したことがあるそうだが、当時いたヨガの先生は皆引退しているとのこと。
理由を聞くと、ケガや病氣で体が動かなくなったという。
数十年前とはいえ今は50歳台、行っていても60台だという。
もしヨガが本当に悟りへの道であり、心身ともに健康へ向かう道ならば、その話は滑稽な笑い話だ。
その方も、現代のヨガには多くの疑問を持たざるを得ない点が多いという。
立ち振る舞いや、身のこなし、実際の体の可動域が人並みはずれたその方の言葉を信頼し、リシケシを離れることに決めた。
僕は僕の方法で、人間を追究しよう。
そう決めた。
昔から、権威は嫌いだった。
大勢が集る所に真実はないことも感覚的に知っていた。
大勢と伴に、多くのお金が流れ込み、より大きく、より効率的にと焦点が当てられ、ヨガはその形を変えていったのだろう。
だらだらと汗を流し、ポーズを連続して決め、フィットネスクラブのようにダイエットを謳うものが多い。
確かに、誰にでも分かりやすい。
ただ、それは僕にはがらんどうに映った。
誤解を避けるために補足する。
リシケシにある多くのヨガは、外国人を招くためのビジネスヨガになっている事実は否めない。
が、実際に真摯に今のヨガに疑問を抱きながら、追究を続けるインド人の先生方もいる。
そして実際に僕もそういった方にお逢いしている。
なので、リシケシのヨガのすべてが本質からずれているなどというつもりは、全くない。
僕自身、方向性を強く持っているため、話の運びがやや極端であることを感じている。
一個人の体験談として、読み進めていただけるとありがたい。
リシケシを後にした僕は、更に奥、ガンゴートリーと呼ばれるガンジス川の源流へと足を伸ばした。
バスは通れない。
ジープを乗り合い、今にも崩れそうな細道を、砂利を崖に撒き散らしながら進み、たどり着いた。
雪を湛えたヒマラヤが、空を突き刺している。
目にした瞬間、頭のてっぺんが痺れた。
雪解けの水は、轟音とともに岩を叩き、目の前を駆け抜けてゆく。
そうか。あなたが、ガンジスでしたか。
そんな感慨と伴にしばらく山で過ごそうと決めた。
夜になると星は巨大で、迫ってきそうだ。
「降って来るような星空」とはこれだと、誰もが深くうなずくような空だ。
星空のもと一人座り、瞳を閉じた。
瞑想は、呼吸が鍵を握っている。
吐く息と、吸う息の間。
呼吸の間が、鍵となる。
呼吸の間を引き延ばしてゆく。
吐いているのか、はたまた吸っているのか、どちらともつかないそんな感覚と伴に、意識は広がりを見せていった。
轟くガンジスの音も消え去り、肉体が今も脈動していることを感じる。
肉体は、細胞が集って出来ていた。
細胞一つひとつが呼吸し、連動し、生きていた。
突如として、体の半分の細胞が母親の顔になり、もう半分が父親の顔になった。
大好きな両親。
同時に恥ずかしい存在でもあり、大嫌いな存在でもあった。
体全体を母親と父親に埋め尽くされ、同時に様々な感情が、雪崩の如く溢れ出してきた。
湧き出る感情の全体を見つめた。
何を隠そうが、どうあがこうが、僕は母親と父親から出来ている。
否定しようとある部分が抵抗していた。
無理矢理すべてを受け入れようと、ある部分が抵抗していた。
その全体を、ただ眺めた。