ナウリ浄化法~そのメカニズム~
ナウリ浄化法、そのメカニズム
こんにちは。
TAMAKARA YOGA~魂と体をつなぐyoga~のクラスを開いています、山崎大です。
今月から、「ナウリ浄化法」の特別クラスを月に一回設けてゆく関係で、今回は「ナウリ浄化法のメカニズム」について綴っていきます。
ナウリ浄化法についての説明は、こちらをご覧ください。
どうぞ、よろしくお願いします。
では、いきます。
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まずは動画からご覧ください。ナウリ浄化法↑
髪が長く、お腹が見えづらくなっていること、お許しください。
ナウリ浄化法の中で、特別注目して頂きたいところがあります。
お腹に大きく凹みができるこのシーンです。
インドyogaでは、「ウディヤーナバンダ(飛翔のバンダ(バンダとは締め上げるという意味))」と呼ばれる、行法の一つです。
これが決まると、ナウリへの道は開けたも同然となり、ウディヤーナバンダを続けることで自然とナウリは出来るようになります。
ですので、今回は、ウディヤーナバンダについて、そのメカニズムを綴っていきます。
まず、↑の状態で何が起こっているのかを申し上げます。
簡単に申し上げると、「内臓の引き上げ」が起こっています。
では、どうして内臓が引き上がるのか、順を追ってひも解いていきます。
重要になるのが、内臓を引き上げるための筋力です。
これは、「横隔膜」という筋肉を使い行います。
横隔膜は、肋骨の下(みぞおちの頂点から脇腹にかけて)を立体ドーム状に張っている筋肉です。
呼吸筋とも呼ばれ、主に腹式呼吸をするときに使う筋肉になります。
息を吸い込むときに、ドームが下へさがり、お腹が上から押されて前に出ます。
息を吐く時は、ドームが上にあがり、おなかが上に引き上げられ凹みます。
この「息を吐くとき」の横隔膜ドームが上にあがる力を強化することで、内臓を引き上げていきます。
〈〈 蛇足になりますが、通常の生活をしていると横隔膜を使い呼吸をすることはあまりありません。
そのため、横隔膜は硬化と共に薄くなり、動きも小さく筋力も弱くなっていることが多いようです。
横隔膜が薄いと緊張しやすくなると言われます。
緊張することを「上ずる」といいますが、この時の声は高くなると伴に横隔膜が上に上がってしまっているようです。
筋力が弱いため、外からの刺激で簡単に上に上がってしまうためだと言われます。
また横隔膜が硬化すると、猫背になります。
内臓や背骨を支える大腰筋と直結しているため、硬くなると動きが制限され、体は猫背になっていきます。
猫背は不幸の始まりと言われますが、神経系統の配置を見てもその通りだと感じます。 〉〉
内臓を引き上げるため横隔膜を鍛えるのはもちろんなのですが、「内臓が引き上がった〜☆」と喜ぶ以上に横隔膜を鍛えることで得られる恩恵は山のようにあります。
更なる蛇足で恐縮ですが、生き物は「息もの」でありアニマルの語源は「アニマ(アニマはラテン語で息の意)」です。
生き物が、息を鍛えること。
それはそのまま、「生きる力を高めることに他ならない」と個人的には感じます。
ですので、横隔膜を大いに鍛え上げていきたいと感じています。
話を「内臓の引き上げ」に戻します。
横隔膜を鍛え上げ、軟化し筋力が高まっても「内臓は引き上げ」はできません。
なぜかというと・・・・
ここからの情報量は横隔膜以上に長くなってしまうので、次回に持ち越させて頂きます。
もったいぶったような終わり方で申し訳ございません。
次回もお読みいただけたら幸いです。
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今回も、お読みいただき、ありがとうございました。
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〈自分の世界を取り戻し、自分の世界を守ること〉
こんにちは。
TAMAKARA YOGA~魂と体をつなぐyoga~のクラスを開いています、山崎大です。
ヨガと瞑想のクラスで、なにを目指しているのか。
目指している場所をこちらに綴っておきたいと感じ、今回のブログを始めていきます。
目指す場所ですので、氣合いを入れて書きます。
そのため、少し長いです。
お時間のあるときに、お読みいただけたら幸いです。
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瞑想で目指す場所は、瞑想をする人により様々であり、
「こころ穏やかに日々を過ごすこと」
「自分を見つめること」
「悪習間や中毒から開放されること」
はたまた
「超能力を手に入れること」
など様々かと思います。
そのいずれの目的も瞑想を行うことによって達成可能かと思うのですが、わたしがクラスで行う瞑想で目指している場所というものがあります。
何を目指しているのか初めに申し上げると、
「自分の世界を取り戻し、自分の世界を守ること」
を目指しています。
「???」
「自分の世界を取り戻す?世界が奪われているってこと?」
「自分の世界を守る?どういうこと?」
とお感じになる方も多いと思いますので、順を追ってひも解いていきたいと思います。
では、いきます。
話を進める上で、「わたしたちは、一人ひとり違う世界を生きている」
ということが、ベースとなりますので、初めにそちらをインドに伝わる昔話を例に用いながら話を進めていきます。
以下、インドに伝わる昔話です。(うろ覚えなので本来の形とは違う可能性が大いにありますが、話の筋は通します。)
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とあるインドの片田舎に、2人の少年が居ました。
少年たちに親はなく、日々物乞いをして生活をしていました。
少年の一人は、生まれた時から目が見えませんでした。
2人は協力し合って、生活していました。
ある日、いつものように町へ物乞いに出かけようとしましたが、目の見えない少年は体調を崩しています。
「今日は、体が重たいよ。町へ出かけられそうにないなあ」
目の見えない少年は、そう言い辛そうです。
「そっか、じゃっ俺がお前の分も稼いでくるからよっ。心配すんなっ。」
目の見える少年はそう応え、ひとり町へ出かけました。
町は賑わっていました。
その日、ちょうどお祭りの日だったのです。
人が群がっている場所を覗き込むと、おかゆを配っています。
「うわー!うんまそうだなあ。おいらにひとつおくれ。」
少年はおかゆを手にし、喉に流し込みました。
「これはうまいなあ。もうひとつ、おかわり!!」
おかわりを平らげていると、ふと、待っている目の見えない少年のことを思いました。
「ああ、あいつは体を崩して寝ているんだったな。こんなうまいものを持っていってやったら、きっと喜ぶぞう。」
そう思いましたが、お椀を持っていないことに氣がつきました。
「まいったなあ。お椀がないと持って帰れないや。ま、いっか。あいつのことだし、許してくれっだろう。」
帰った後、少年は今日の出来ごとを正直に話しました。
「今日な、出かけた町でお祭りだったんだ。そこでおかゆを配っていてなあ。それが、ものずげーうんまかったんだ。お前にも持ってきてやりたかったんだけど、お椀もなくてよ、全部食べちった。」
少年がそういうと、
「そう、今日はお祭りだったんだね。それは、いい日だったね。僕も、そのおかゆ、食べてみたかったなあ。だけど、そんなにおいしいおかゆって、どんなおかゆなの?教えておくれよ。」
目の見えない少年は、訪ねました。
「そうだなあ。あのおかゆは、あったかくてなあ、ふわふわしてて、そんで白いんだよ。」
少年は答えました。
「あたたかくて、ふわふわしてて、白いんだねえ。。あったかくて、ふわふわしているのは、僕も分かるのだけど、その白いってどんなことを言うの?」
目の見えない少年は訪ねました。
「ん?白か。ん〜、白はなあ。黒じゃねんだよ。赤でもねえし、とにかく白なんだよ。」
少年は答えます。
「うん、でも僕には、黒も赤もどんなものか分からないよ。白っていったいどんなものなんだろう?」
少年が答えに詰まっていると、ちょうど目の前に白い鶴が通りました。
少年は鶴を捕まえてきて、「こいつが白ってやつだよ」と目の見えない少年に渡しました。
目の見えない少年は、鶴を撫でながら
「ああ、これが、白なんだねえ。白って言うのは、あったくてふわふわしているんだねえ。そうか、白は、あったかくてふわふわしているものなんだねえ」
と言いました。
とさ。
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お読みいただきありがとうございました。
以上がインドの昔話です。
わたしたちは人と関わるとき、共通の認識を用いコミュニケーションを図ります。
けれど、「誰にとっても共通なこと」というのは、インドの昔話が示すようになにひとつとしてないのが事実なのだと思います。
例えば「おいしい」や「かわいい」といった感覚は、人により千差万別です。
もちろん「セクシー」という感覚も人により違うものです。
髪の毛を隠す風習のあるイラン人は、スカーフから僅かにのぞく髪の毛が最高にセクシーなのだと言います。
イランを旅していた当時、わずかに覗く女性の髪の毛についておじさんに熱く語られた日は、さすがにカルチャーショックでした。
わたしがグッピーであったら、そのままショック死しているところでした。
しかししばらくイランにいるうちに、イラン女性が意図的に髪の毛をチョイ出ししている意図も見え隠れし、通りすぎざまの心理的な男女の駆け引きがそこに存在しているのだと氣がつき、髪の毛を見るだけで「確かにセクシーだ」と深く頷く自分が居るようにわたし自身の感覚も変化していきました。
蛇足に次ぐ蛇足ですが、髪の毛を見ただけで、「セクシー」と感じてしまっていたわたしは、イランの次の訪れた「世界一ビジョの多い国(しかもそのおおくが奔放な装い)アルメニア」でいとも簡単に撃沈し、3、4日の滞在予定が、十倍に伸びてしまいました・・
冗談はさておいて、わたしたちの感覚は、人によりまるで違います。
そして、それが自然なことです。
感覚どころか、インドのたとえ話のとおり、「白」という一見誰もに共通しそうな事柄でさえ、人により捉え方は違います。
大げさでなく、耳の聞こえない人には、「音」はなく、目が見えなければ、「色」はありません。
世界に色はある!!
とどんな権力を用い宣言した所で、「ない人にはない」が事実です。
同様に、「正しい」も「間違い」も「かっこいい」も「おいしい」も共通するものなど一切ないのです。
その人が、こころから「正しい」と感じたことが「その人にとって(その人の世界)の正しい」なのです。
そこに、理論や法律の出る幕などありません。
つまり、「常識」や「普通」というものは、
「あった方が、多くの方が共通に話をする上で便利だから、あることにしているもの」
に過ぎないというのが事実です。
「常識」も「普通」も本当はなく、虚構です。
にもかかわらず、わたしたちの生きる社会では、この「常識」や「普通」が力を持ちすぎてしまっているのです。
本当にはない虚構にも関わらず、本当の世界(個々が感じている世界)に侵入し、人によっては食い尽くされてしまっています。
「おいしい!!」と感じたとき、それをそのまま声高らかに宣言できるでしょうか?
それが流行っていないお店で飲んだみそ汁であったときと、5つ星レストランで食べた高級な料理であった時を想像してみてください。
「5つ星レストランはおいしい」
「流行っていないお店はおいしくない」
常識とはそんなものです。
ですが、真実は、「あなたがどう感じたか」と言うことに尽きます。
「5つ星レストランで食べたけれど、まずいと感じた」ならば「まずい」でいいのです。
「まずいと有名で流行っていない店(そんな店があるのかはしりませんが)で食べたけれど、ほっぺたが落ちるかと思った」
なら、それがあなたの真実です。
「まずい」と感じたのだけれど「5つ星レストランだし・・わたしの味覚がおかしいのかな?」となっては、虚の世界に食われていることに氣がつく必要があります。
「〜が正しい」
「〜は間違っている」
「〜は格好いい」
「〜を食べるのが良い」
そんな虚構で世の中は満たされてしまっています。
個々の力は、比例して弱まっています。
「○○が正しいとわたしは思う!」
という時に、理論や科学的根拠を持ち出す必要は本当はありません。
「○○が美味しい!」
というときにそのレストランの評判を氣にする必要も、全くありません。
「あなたが、美味しいと感じたこと、あなたにとって栄養となりあなたが正しいと感じたこと、あなたがかっこいいと感じたこと。」
そのすべてが信じるべきものであり、それこそが世界です。
世界に皆にとって共通なこと(常識)などあり得ないのですから。
一人ひとりが違う世界を生きている。
それが揺るぎない真実です。
だからわたしたちは、共感してみたいのです。
他の人はどう感じているのか、確かめたいのです。
だからこそ、会話をするのです。
もし、「○○がおいしい」と答えが決まっている世界であるのなら、必要なのは答え合わせでだけであって、会話ではありません。
瞑想は、瞳を閉じる所から始まります。
外との繋がりを一旦切断し、内側で本当に何を感じているのかを眺めてゆきます。
いろいろな価値判断や、思考の癖、そういったものが常識から植え込まれたものであることを発見しながら、奥深くに今も居る、本当の自分へとアクセスしてゆきます。
瞑想は病氣を治すことで今では有名になってきていますが、病とは、「こころを否定してしまっている状態」から多くは引き起こされます。
「本当のこころ」を発見し、守ってゆくこと。
それは、
「常識という本当にはない虚の世界から、自分の世界を取り戻し、自分の世界を守ること」
に他なりません。
感じたことを、堂々と、胸を張り、誰もが高らかに宣言してよいのです。
クラスでは継続して瞑想を続け、
「自分の世界をはっきりと取り戻すこと」
を目指してゆきます。
ご興味のある方は、どうぞ遊びにいらしてください。
なぜか最後は宣伝になってしまいます。
愛嬌としてお許しください。
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今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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〈ありがとうは本当に効く!ごはんが腐らない!!〉
TAMAKARA YOGA~魂と体をつなぐyoga~のクラスを開いています山崎大です。
過去のエピソードや瞑想についてなどなど、こちらのブログを通して表現してきましたが、今現在のことについて語ることのないこの頃でしたので、「今」を今日は綴らせていただきます。
こんな落ちついた調子で文章を書いているのですが、今、割と興奮しています。
どのくらい興奮しているのかというと、オーストラリアで友だちとオペラ劇場を見に行った時くらい興奮しています。
分かり辛い例をさも当然のように綴ってしまうあたりから、大分興奮していることを察していただけたら幸いです。
どうして、こうも、興奮、しているのか、と、いうと、ある、発見をしました。鼻息、荒めです。
よくあるごはんを腐らせる実験をしていました。
言葉を書いた紙の上に、ごはんの入った瓶をいれておくというあれです。
小学生様たちが、夏休みの一研究でされていたりするのですが、大人のわたしも挑戦してみようと思っていた訳です。
大学は理科専科であったプライドはあるのかないのかは知りませんが、実験はそこそこシビアに行いました。
炊いたばかり玄米を50グラムずつ、同じ形状の瓶に詰め、同じ状況下で放置しました。
それぞれの下には、「ありがとうございます」「元氣です」「バカ」というベタな文字を丁寧に書いておきました。
三か月放置しました。
途中経過の写真も多数撮ったのですが、見当たらないので割愛します。
2週間ほどから、それぞれ順調に腐っていきました。
左から「元氣です」「ありがとうございます」「バカ」の順です。
見た目としては、「ありがとうございます」がきれいな白に対して、「バカ」は赤黒く怒っているよう・・「元氣です」は文字通り元氣な感じに腐っていきました。
けれど、どれも腐っているので、「ありがとうございます」だけ腐らないのではないかと思っていたぼくは内心「あら、これは言霊の効果ないのかしらん・・」と少し弱氣でした。
三か月の後、開封し、匂いチェックを行い驚きました・・
「ありがとうございます」は、お酒のようなとても香しい匂いでした!!食べたい!と思いましたが、寸での所で何かがそうさせなかったので、土にあげました。
「元氣です」は、少し酸味のある美味しそうな匂いでした。良くある発酵食品のような匂いです。
「バカ」は、鼻が曲がるかと思いました。
それぞれが、あからさまに違う腐り方をしていたことがはっきりと分かりました。
腐り方が違うと言う事は、そこに存在する微生物が違うと言う事を意味します。
言霊は、あからさまに効いている!!
ただの知識が、事実に変わった瞬間です。
しかもかなり重要な事実です!
言霊は、微生物に確実に伝わっており、言霊のバイブレーションに合った微生物が増殖するということがどうやら判明しそうです。再実験などするまでもなく、僕にとっては明らかすぎたので、氣になる方は是非お試しくださいませ。
身につけるもの、使う言葉、より一層意識してゆくと誓うに申し分のない出来ごとでした!!
今回もお読みいただけましたこと、ありがとうございます!ありがとうございます!ありがとうございます!くどいけど、繰りかえします。ありがとうございます!!!!
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〈意識的に、狂うということ〉
こんにちは。
TAMAKARA YOGA~魂と体をつなぐyoga~のクラスを開いています、山崎大です。
今回は、「意識的に狂うこと」について綴っていきます。
お時間のあるときにお読みいただけたら幸いです。
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クラスではことあるごとに、両目を上に向けたり、あくびをするときのように口を大きく広げたり、手足をぶらぶらさせながら「あーー」と声を出したり、鼻のてっぺんを見つめたり・・
変な動作と言うか、通常の私生活ではしない動きをしていただいています。
必殺技と呼んでいる、とっておきの変な動作もあり、それは近いうちにクラスでも表現できたらと思っています。
なぜ、変な動作を毎回のように動きの中に加えているかというと、それなりに訳があります。
変という文字を辞典で調べてみると「普通と違うさま」「様子がおかしいさま」と出てきます。
本当は変もへったくれもないものだと思っているのですが、わたしたちは「普通」という規準をもとに物事を捉え、その「普通」から外れると「変だ」と感じる訳です。
なので、おしりをコップの水と手を使い
「ウォシュレットは古代より、わたしたちによりすでに実践済みだ」
というインド人を見たときや、
手で食べものを掴み
「まず、手のひらで味わう。これをしないなど神聖な食べものに対する尊敬を忘れている」
というインド人を見たときに、「変だ」と思う訳です。
インド人に限定してしまい、インド人の方、ごめんなさい。
ですので、場所や状況が変われば「普通」も「変」も変わってゆくものです。
けれど、通常は一つの国や一つの地域に根ざしていきているのが人間です。
その場所に存在する「普通」であることを覚え、その枠組みから出来るだけ出ないように、皆氣を使って生きています。
これは日本人に限らず、インド人もそうです。
インド人にもインド人の普通があり、インド人も氣を使って生きています。(そうだといいな)
なぜ、そうも皆「普通」の中に収まろうとするのか。
それには、人間がそもそも動物であるという点が源になっていると僕は思っています。
単純に皆と違う行動をとることで、「目立ち」ます。
「目立つ」ということは、動物(特に草食動物)にとっては、いのちを脅かします。
できるだけ、皆と同じように目立たずひっそりと集団にまぎれていた方が、外敵に見つからず、いのちを長らえることが出来るというのが道理です。
わたしたち人間もご多分に漏れず、「生存本能」が宿っており、集団という安心の中にひっそりと入っていたい。
つまり、「集団のお仲間に入れておいて欲しい」のです。
ですので、この「生存本能」が目立つことを嫌がるのだと僕は思っています。
「でも、目立ちたい!!」という方、よくよく見つめてみると、それは「良い意味で目立ちたい」ということに限定されているはずです。
「どんな評価を得ようと、ただただ、目立ちたい!!」という方は、そうはいません。
「良い評価を得ることが出来るという状況を真似し、目立つこと」は、「良い評価を得ることが出来る集団(意識)」のお仲間になることでしかなく、結果的には、集団(意識)に属し身を守っている状態です。
つまり、わたしたちは、その場その場存在する「普通」の中に入り込んで、目立たず身を守りたい訳です。
それが、生き物としての「本能」の働きだと思うのです。
けれど、何を隠そうわたしたちは「人間」です。
本能だけの存在ではありません。
本能だけの存在である動物たちには、悩みはないとされています。
本能に従うだけですから。
人間は、「悩み」ます。
本能を持ちながらも、「こうありたい」「表現したい」「感動したい」というこころを持っている存在だからです。
そして、「こころ」は、誰しも独自性を持っています。
皆と同じように出来てはいません。
皆と同じようにひっそりと生きていれば、肉体として「生きながらえる」ことは可能です。
けれど、「こころ」の独自性は、それでは不満なのです。
肉体としての生存本能と「こころ」の独自性を持つが故に、人間は「悩む」ことが出来る唯一の生きものであると僕は思っています。
肉体は肉体を存続させる意志を持ち、「こころ」はそれぞれに独自性を持っています。
その観点から見ると現代は、肉体の生存本能優位に動いており、「こころ」の独自性を十分に発揮することがし辛い社会であることが言えます。
ストレス社会と言いますが、「ストレス」とは、「こころ」が押さえ込まれ不自由になっているときに感じるものではないでしょうか。
ピカソや岡本太郎などの、爆発した芸術性は「こころ」の躍動そのものであり、だからこそわたしたちの心を打つのだと思うのです。
「普通」という観点から見たら、彼らの表現は「変」であり、「狂って」います。
それは、彼らが「こころ」を自由に表現した結果であるからだと思うのです。
「こころ」とはそれぞれに独自性を持ち、「普通」という観点から見たときに誰しもが「変」で「狂って」います。
「変」で「狂って」いるにも関わらず、「普通」なふりをして身を潜めているのが、わたしたち人間なのです。
そうやってみると、なんだか可愛らしいですね。
ですので、僕のクラスでは、わざと「変な動き」や「狂っている動作」をすることで、本来の「こころ」へとアクセスしてゆくという目的があります。
前回のブログでも紹介したoshoはこれにいち早く着手しており、変な動きや踊りを取り入れていたようで、集り来る人々の精神疾患のことごとくを取り去っていったと聞きます。
変な動きや、狂った動作をする時、「いやだな、やりたくないな」と感じるものもあるかと思います。
その「いやだな」という感覚を見つけ、捉えていただけたらと感じます。
その後ろには、「こうあるべきだ。こう見られたい」という「制限」や「自分とはこういうものだ」という固定された考えがあります。
その固定化された考えが、苦しみや悲しみ、怒りを生み出しています。
「いやだな」という感覚に氣がつき、薄皮をはがすがごとく、制限がはずれてゆく。
その先には、苦しみや怒りが減っていき、本当の笑顔が待っているのだと信じています。
クラスにご参加いただけます方、「変」で「狂っている」動き、これから増えてゆくことが予測されます。
どうか、お付き合いいただけましたら幸いです。
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今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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インドエピソード〈踊る瞑想体験〉
TAMAKARA YOGA~魂と体をつなぐyoga~のクラスを開いています山崎大です。
インドでの旅の中でダンシングメディテーション(踊る瞑想)と出逢い、大きな感銘を受けました。
出逢いから体験までを綴っています。
前回からの続きとなります。
前回をお読みでない方は、「インドエピソード・ダンシングメディテーションとの出逢い」からお読みください。
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Osho瞑想センターでの朝は、6時から始まりました。
ルンビニは開けており、遠くの地平線から太陽が顔を出し、また地平線へ太陽が沈んでいきます。
亜熱帯特有の湿氣を含んだ朝の匂いを吸い込みながら、赤い朝日に一礼し、瞑想ホールへと向かう日々でした。
朝一番から「ダイナミックメディテーション」という最高に激しい瞑想が始まります。
宇宙音にも電子音にもとれる妖しげな音楽が建物を揺らし、その爆音の中でジャンプし続けます。
口からは「はっ、はっ、はっ、はっ」(正しくは「ふ」の口で「は」を発音)
と大きく息を吐き出しながら、飛び跳ねていきます。
途中カタルシス(発散浄化)というシーンがあり、獣のように叫び声をあげます。
叫び声は「うわー」とか「きゃー」とかいった可愛らしいものではなく、咆哮と呼べる類いのものです。
「うぐぉろぐぁおーーーーーー!!!!!!!ぎょえええいいいいい!!!げえろげろ!!」
のような感じです。
胸を掻きむしり、口からはよだれを撒き散らしている方々もいらっしゃいます。
「ああ、完全に狂気の沙汰だ。変な所に来てしまったな。」
「僕は、そうはいっても正常な人間だから、ああいう下品なまねは出来ない。」
と僕の中に住む防衛本能が身を守ろうと語りかけてくる一方で、
「とうとう本物と出逢えた!ここで僕はもう一つ次の段階へゆけるのだ!」
と喜んでいる僕が居たことを覚えています。
始めて数日のうちは、僕の中に住む防衛本能が顔をよく覗かせていました。
「そう、あの人たちは狂っているのだ。だからあんなによだれを垂れても平氣なのだ」
「インド人やネパール人は、元々そういう氣質なのだろう。日本人はおしとやかだから。」
と、時々薄目を開けて周りを伺いながら、変に浮かない程度に合わせながら体を揺すっている自分がそこには居ました。
ある日、いつものように爆音の中で飛び跳ねていたときのことです。
怒りが沸き起こり、押さえきれなくなりました。
「あ、これを出してしまったら、きっとまずいことになる」
と僕の中の防衛本能がブレーキを踏もうとしていることも分かっていました。
「ぎょえええいいいい!!!!ぐおろぐぉがーーーー!!!」
雄叫びと伴に、内側の怒りがブレーキをはね飛ばしていました。
「ああ、僕は今狂っている、今日初めて来た方には惨いものを見せてしまったな、申し訳ない」
とすこし離れたところから見ている僕が居ながらも、僕は獣同然に咆哮し続け、口からはよだれを撒き散らしていました。
そんな瞑想の後、遠く地平線を眺めながら朝日を浴び、チャイを啜る中でいろいろなことに氣がつきました。
僕たちは、この地球という自然の中に生まれ出た生き物であり、もともと100%自然の存在なのだ。
自然であれば、笑いたいときに笑うのがいい。
泣きたいときに、泣くのがいい。
怒りがあるなら、怒るのがいい。
それが、自然なのだ。
けれど、現代はそれが叶わない。
怒りは押さえ込まれ、笑いも場をわきまえよと封じられ、泣くこともそう容易くはない。
押さえ込まれたそれらは、時と伴に消えてゆくように感じられるかもしれないが、決して消えていないのだ。
体のある部分に蓄積されている。
それの多くはお腹に貯まっている。
日々大きな咆哮を続け、お腹が大いにゆるみ呼吸が深くなるごとに、実感を持って理会していきました。
姿勢も自然と改善されていきました。
「姿勢を正せ」とは良く聞くところですが、姿勢とは、無理して正す類いのものではいと今は感じています。
自由に感情や内側を表現できることを確信と伴に実感するごと、緊張や制限は外されお腹はゆるみ、胸は開き、呼吸が深くなる。
そうしたとき、自然と姿勢は正しくなっている。
姿勢とは、結果なのだと
今は、そのように捉えています。
一月をoshoの瞑想センターで過ごした僕は、そのままヒマラヤの奥地へと足を運び、ヒマラヤに囲
まれながらダンシングメディテーションを続けていました。
どういう訳か、僕のお世話になっていたご家庭には、村とも呼べない集落にも関わらず、それなりのサウンドシステムが用意されており、毎日のように僕は爆音と伴に体を揺すり叫んでいました。
村人たちは、所構わず踊り狂う僕をおもしろがってくれました。
次第に咆哮のような叫びは姿を消し、ただ体を音に合わせ揺するようになっていきました。
ある日のこと、いつものように最大音量で音楽を流しながらダンシングメディテーションをしていたときのことです。
20分程でしょうか踊り続け、音楽が切れた所で動きを止めると、突然拍手喝采を浴びました。
我に返り、辺りを見回すと、20人程の子どもたちや村人たちが円になり僕を囲み、ずっと見学していたようでした。
「ワンモアプリーズ!ビューティフル!!!」
と多くの賞賛を頂き、戸惑いながらそそくさとその場を後にしたことを思い出します。
その時の僕のダンスは、集り拍手をしてくれた方々の表情から察するに、そこそこビューティフルだったのだと我ながら思います。
「ダンスとは、内側の躍動が体に伝わったものに他ならない。」
「ダンスと言えば、外側から型を覚え、その型通りに体を動かすことを通常は連想するのではないだろうか。けれど、その本質はこころであり、こころが踊り躍動し、それが体を通じて外側に現れたものなのだろう。」
自身のヒマラヤでのダンス体験から、今ではそのように思っています。
無我夢中の状態で音に身を委ね体を揺すり続けていた僕の体は、ますます弛んでいきました。
ときどき、骨から全ての筋肉が浮き上がり、遠心力も助けとなり、普段意識できないような筋肉まで「とうとうわたしを見つけたね」と声を出すようなシーンもありました。
ダンシングメディテーションは奥深く、その恩恵も計り知れないと感じています。
僕自身もより、瞑想とその理会を深めながら、今後もダンシングメディテーションをクラスで扱っていけたらと思っています。
ご参加いただけます方、最初の頃は「こんなことさせて、どうするつもりだろう?」であったり「なんだか妖しい儀式みたい」とお感じになることもあるかもしれません。
ですが、続けてゆくうちにその声の主が、体に住み着く防衛本能の声であることを見抜き、瞑想の恩恵に触れる機会が出て来ると信じています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
今回は、ダンシングメディテーションについて綴りました。
最後までお読みいただけましたこと、ありがとうございました。
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インドエピソード・ダンシングメディテーションとの出逢い
「TAMAKARA YOGA~魂と体をつなぐyoga~」のクラスを開いております、山崎大です。
今回は、ダンシングメディテーション(踊る瞑想)について綴っていきます。
お時間のあるときにお読みいただけたら幸いです。
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瞑想・ヨガのクラスを開かせていただいている中で、毎回少しの変化を加えてゆくことを大切にしたいと思っています。
それは、季節が変化していることももちろん、集る方々の体や心の状態も場所が持つ雰囲氣も、毎回少し違うものだと感じており、それに応じて変化を加えてゆくことが自然であるからだと思っているからです。
行うボディワークや、瞑想にもそれぞれにおいて自分なりのこだわりがあり、中でもダンシングメディテーション(踊る瞑想)には、とりわけ大事にしたいコダワリがあります。
場所や、集る方々の年齢層によって、ボディワークは相応に変化させていますが、ダンシングメディテーションだけは必ず取り入れています。
塩尻のクラスには、70歳近い方々が多くいらっしゃいますが、民族トランス音源でダンシングメディテーションをしております。
みなさま戸惑いの表情を隠し切れていないことは承知の上ですが、強行させていただいております。
変化こそが自然であるならば、ダンシングメディテーションを行わないクラスがあってもいいのではないかとも思うのですが、どうしても取り入れたいのです。
ダンシングメディテーションに僕が出逢ったのは、瞑想を求めインドを旅していたときのことでした。
ヒマラヤの奥地で一人瞑想に耽っていたのですが、
「はて、このままここにいて、果たしてどうなるものやら。どなたかに、自分の住んでいるこころの現状を教えていただきたい。誰か、瞑想の達人でも居てくれたら」
と思っていたのでした。
そんな僕は、瞑想の達人と言えば何を差し置いてもまずはブッダであろうと、ブッダのお生まれになった地である、ネパールはルンビニを目指したのでした。
ルンビニは、開けていました。
着いたとたん、穏やかな空氣を感じました。
ブッダを求め、多くの方々が祈りと伴に訪れた地。
祈りは風に溶け、ルンビニ全体を優しく包むようで、肌にまとわりつく穏やかさが心地よい所でした。
どこに居ても漂っていたインド特有の荒々しさはすっかり姿を消していました。。
ブッダは2500年程昔に、既に亡くなっておりました。
そうであることは、ルンビニに着く以前より承知の上でしたが、ルンビニという地の持つエネルギーに触れ瞑想することで、行き詰まりを感じている自分に何かヒントをもらえるような、うっすらとした空氣のような確信があり、その思いを頼りにルンビニに来たのでした。
Oshoという人物が、インドに居たことは知っていました。
Oshoは生前、現代に生きるブッダであるとか、キリストやクリシュナの言葉を現代に蘇らせてくれる師であると呼ばれていたようです。
ブッダにもキリストにも、僕は半生においてご縁はなかったのですが、oshoの著書は時々読んでいました。
今まで分かり得なかった自身の内側のことを、分かりやすくも優しさを交え表現するoshoが僕は好きでした。
僕のこころの声を代弁してくれる方であると、密かに尊敬を寄せていました。
Oshoも既にこの世を去っていた存在ではありましたが、多数の著書は現代でも手に入り、ブッダやキリストよりも僕にとっては近くに感じることができました。
ルンビニでブッダのお墓や、かつて彼が暮らした寺院を眺め、しばらく小さなその町を歩いていると、「osho」という看板が目に留まりました。
「まさかあのoshoではあるまい」
と思いましたが、看板の指し示す方向へ歩みを進めてゆくと、そこには現在も使われているoshoの瞑想センターがあったのでした。
センター長に話をすると、「今日から来なさい」とのこと。
トントン拍子で話は進み、住み込みで朝から晩まで瞑想付けの日々がスタートしたのでした。
このoshoのセンターでダンシングメディテーションと出逢い、そのパワフルさに触れ、今まで身につけていた瞑想観が大いに変化してゆきました。
「瞑想とは、じっと座っているものだけではないのだ。
激しく、内側を放出するものが必要なのだ。
それにより、更に深い瞑想への扉が開かれてゆく。」
そんな思いを強烈に感じたダンシングメディテーションとの出逢いでした。
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文体を今までの調子と変えたため、ダンシングメディテーションに出逢うまでを引っ張ってしまい、のんびりとしたペースになりましたので、ダンシングメディテーションの体験エピソードは、次回に持ち越します。
お読みいただけます方、文体が安定するまで何かと御迷惑をお掛け致しますが、お付き合いいただけましたら幸いです。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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「○○を食べると、良い!!」
TAMAKARA YOGA~魂と体をつなぐyoga~のクラスを開いております、山崎大です。
瞑想をすることで、食への関心が高まり、食に対する思いも変わりました。
僕の食への立ち位置をつづりました。
お時間のあるときにお読みいただけたら幸いです。
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○○を食べると良い。
○○を食べると良くない。
朝食は抜くのが良い。
朝食はとらないと脳卒中になりやすい。
などなど・・巷には情報であふれている。
「どっちやねん。もうっ、いろいろ、うるさいわ。」
であったり、
「朝食は抜くのが良くて、あれ?でも脳しょっちゅうにはなりたくないから、たべる、けどだめ?あーれー。」
と感じている方々は、多いのではないだろうか。
僕自身、食べものに関しては割とこだわりを持っている方だ。
そのどれもは、総じて体験から導き出してきた。
どこかの博士が言っていたとか、研究所が出した実験結果だとか、そういったものに従うことは正直余り好きではない。
自分の体や人生に関わることを、どこかの博士様にお任せする程ふらつくつもりはないし、個人差というものが大いにあると感じている。
考えを率直に述べると、自身の外側に万能薬は存在しないと考えている。
これさえ食べていれば、大丈夫。
これさえやっていれば、大丈夫。
そんなものは、ない。と感じている。
ただ、そう思いたい氣持ちは分かるつもりだし、そう思ってきたことも実際にある。
この世界に、原因のないことは起こらない。僕は自身の人生を振り返りそう感じている。
全ての結果には、原因がある。
それが見えにくかったり、見るための方法をわたしたちが知らなかったりするに過ぎないと思う
体や精神の不調には、まず原因がある。
そして、似たような症状を表していても、原因となるとそれは千差万別であることは言うまでもない。
原因にアクセスできなければ、症状の根本解決にはならない。
原因が人によって違う以上、誰にとっても効果のある万能薬などないと考える理由はそこにある。
わたしたちは大事なものを忘れている氣がする。
人間は、この地球に生きているひとつの生命体だ。
独立して存在していない。
繋がりの中で、一つの波のように存在している。
であるならば、口に入れるものはどんなものが適切か、本当は皆知っているはずなのだ。
博士などそこに出る幕はない。
地球が生み出した自然のものが、口に入るのに一番適しているのは言うまでもない。
そして、暑い土地に暮らす生命には、その土地から生まれたものが適しているのは言うまでもなく、寒い土地に生きる生命には、そこのものを食せば良い。
寒冷地産の野菜たちが体を温め、熱帯の果物たちが体を冷やすことは、実験をするまでもなく自明の理だ。
そして、新鮮な空氣を取り込み、太陽の光を十分に浴びること。
どこかの会社の宣伝に従い、化学物質を肌に塗りこみ、太陽の日差しを避けやせ細り、精神を病む。
従った結果は、不健康への道。
どこに、向かいたいのだろう。
どこに、先導されてゆくのだろう。
誰が導いているのか、その先を見ているものは、いるのだろうか。
情報に翻弄さた先には、不健康が顔を出し、自らの健全な判断を失い更に情報に操作されてゆく現実があるのではないだろうか。
人間が繋がりの中を生きる一生命体であることを、腹の底から信じ切る必要に迫られているように思う。
太古のヨーロッパには、人の病を取り去るおばあさんがいたという。
おばあさんは、病のある人の家に伺い、家の周りを一周し、庭に生えている植物を摘み取り煎じて飲ませたようだ。
その土地に暮らす人には、暮らす場所に暮らす人にとって適切な植物が生えているのだという。
庭に生える植物を煎じて飲んだ方々の病は、改善されていったと聞く。
そして、病を治すおばあさんたちは、過去に魔女と呼ばれ、排除されていった歴史がある。
魔女狩りの後は、アロパシーと呼ばれる科学薬を用いた医療が世界を覆っていった。
アロパシーは、儲かる。
ナチュロパシーを初めとした自然医療は、自然が与える恩恵を使う。つまりただ同然なのだ。
ナチュロパシーで病が治っては、儲けたい思いを持った人たちに不利になる。
それ故に、弾圧され消されていった過去を持つ。
○○を食べると体に良い。
○○を食べると体に悪い。
そんな情報は、どうでもよい。
一人ひとりに、良いものも悪いものも違う。
暮らす場所が違えば、体に良い食べものも違う。
そして、わたしたちは地球に生きる一生命体だ。
生命体である以上、生命を口にするべきなのだ。
いのちは、いのちを口に入れるからこそ、その力をまた燃焼させることが出来る。
栄養学でわたしたちは汚染されてしまった。
食べものは栄養素などで分けられるものではない。
エネルギーとして捉えるものであり、さらにはいのちであるかどうかが鍵を握る。
発芽玄米が体にいいことは、それがいのちを含んだものであり、今まさに発芽するエネルギーがそこに宿っているものだからに他ならない。
生成されたビタミン剤など、生きてはいない。そればかりか、過剰に偏っている。取り続ければ、自然の産物である体はどうにかなるだろう。
厳しい言い方かもしれないが、化学薬など、論外。
そして、情報で何を食べるかを決めることは、もうやめなければ、情報が氾濫する今、どうにかなってしまう。
外側を見る時代は、もうすぐ終わりを告げる。
見続けるならば、わたしたちが終わりを告げる。
そのどちらかだろう。
外側に答えはない。
全ては内側に刻まれている。
何が体に良いかは、口に入れた後の内側からの声に従ってゆく。
それが人と違うことは、当然であり、同じになる必要はない。
内側からの声を目覚めさせる。
その方法はいくつもあろうが、僕が知っているのは瞑想だ。
内側に今も流れる、いのちを刻み続ける自然と繋がってゆく。
自然は今もいのちを動かし刻み、必要なことを伝えて来る。
すべては、内にいる大自然を動かす存在から聞き出してゆく。
病には、原因があり、それぞれの体験や環境によりそれは異なる。
解決法も、必要な口に入れる食事も、全て異なるのだ。
答えは、内側に。
瞑想は、病氣を治すのだろう。
それは、大いなる自然とつながる方法だからに他ならない。
様々な情報が飛び交い人を誘っている。
その先が、うつくしい世界でないことについ怒りを覚える。
文体も厳しいものになってしまい申し訳なく感じる。
人にとっては、攻められているように感じてしまうかもしれない。
極端であることは、自分でも承知している。
一つの意見として、お読みいただけたらありがたい。
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今回も最後までお読みいただけたこと、ありがとうございます。
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