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〈生き方のstyle〉

生き方は、違っていい。違いこそ、豊かさ。自分に還れば、皆違う。自分を変えようと旅をした。旅は瞑想に導き、僕は僕に還ることにした。

〈インドエピソード・ジャングル生活で見つけたもの〉

インドエピソード

こんにちは。


〈たかまらyoga~魂と体をつなぐyoga~〉のクラスを開いています、山崎大です。



暮らしている長野安曇野は、オオイヌノフグリフキノトウなどの新芽が顔をのぞかせ、吹く風もどこか暖かみの感じる冷たさで、太陽の光線は皮膚を通過して深部まで一直線に走ってゆく強さに変わってきているこの頃です。



晴天が続き、氣持ちの良い日は、個人的に「光の呼吸」と名付ける呼吸法を模索し見つけていった当時のことをよく思います。



ヒマラヤに籠り、自然の中を自然だけで生きていた日に、「光の呼吸」を体験しました。



当時は、ヒマラヤの雨期であり、朝にもかかわらず、むわっと立ちこめる生温い湿氣を含んだ亜熱帯のジャングルの中、裸足で歩き回っていました。




修行という名でヒマラヤに籠ったのを良いことに、僕は常にわくわくしていました。



その土地が生む、豆とトウモロコシに麦。
それからバッファローの乳、にわ鳥が毎日一つだけ生む卵。

それらを食べ、あとは山を裸足で歩き、ジャングルの中を歩き回りました。



ジャングルから戻ってきた時は、両足の指の間にぎっしりとヒルが入り込み、取り除くのに10分程かけなくてはならないことは、確かに修行でした 笑



ジャングルは生氣で満ちていました。




コンクリートジャングルと呼ばれる都会は、確かに人を養っています。

店が建ち並び、食品に衣類、生活を支えるあらゆるものがお金と引き換えに手に入ります。


生物を養う、それがコンクリートであるかどうかに関わらずジャングルと呼ばれる場所の持つひとつの役割のようです。




ヒマラヤのジャングルは、コンクリートとは圧倒的に違いました。




生み出し、養う生き物の規模がまるでまるで違います。



そこ自体、ジャングルそのものが息をしており、生きており、生き物であるということが大きく違いました。



コンクリートは、生きておらず、生きていないコンクリートの中に囲まれては、生き物の尊厳である自由を引き換えに差し出さなくてはならず、そのものの生命力も自然と減ってゆきます。





生のジャングルは、全てがいのちでした。





次第に、耳を澄ませば、木々の呼吸を、鼓動を感じるようになり、土に潜む微生物たちのざわめきや、遠くに潜む虎の氣配を感じることも増えていきました。






いのちが、いのちを養い、いのちが、いのちを生み、まわっていました。






ジャングルは、荒々しく蒸し、踏み入れたその時から、いのちのやり取りが始まっていることが、足首にぶら下がり、血液で膨らんだヒルを見ながら氣がつきました。





いのちは、いのちの中で、いのちを分け合い、全体として、一つのいのちとしてまわっていました。




そして、その全体のいのちの輪の中に僕がいるという紛れもない事実が、はっきりと浮き立つように実感出来ていきました。




次第に、個の感覚は遠くなり、僕に流れる血液は、ヒルとなり、ヒルを口にしたツバメとなり、卵となり、また変わり、目の前を横切るトンボになっていると感じたとき、すべては、僕そのものとなっていました。。





山籠もりは、多くが孤独であり、それは、至福でした。




目の前に存在する全てが、僕を分け、僕は、彼らを分けて出来ており、そのすべてが大いなるいのちであり、「自然」でした。





自分とは、自を分けると書くように「わたしを分けたもの」であり、そのわたしとは、「然り」が「その通り」という意味で古来より使われてきた文字が示す通り、「わたし、その通り」=「自然」であることが、心の底から生き物として、いのちとして、実感してゆきました。





ヒマラヤジャングルでの修行生活は、今となっても最高の宝の一つであり、僕をいつも押し上げ支える、揺るぎのない土台です。





ある日、いつものようにジャングルを裸足で歩いていると、あることに氣がつきました。





余談ですが、この時の「歩く」は、ただの散歩ではなく、一足ひとあし感じながら歩き、空氣のざわめきや、草花から醸し出される氣を感じながら歩く、「氣功歩き(笑)」をしていました。なので、とても歩みは遅く、時折立ち止まり目をつむり、踊るように手足を動かしている僕を稀にお逢いする村の人たちは興味深げに見ていたように思います。




ジャングルは、いのちがいのちを食べ合い、養い、生み出しながら、鼓動し、変化し、その連続の最中で、今、目の前に居ました。




「光が奥にある」

「生とは、光だ」




いのちは、食べ合いの中で、「光」をまわしていました。


光で、生き物は動き、光が、僕の中をまわっていました。



光とは、文字通り太陽から休むこと無く降り注いでくる光であり、草花や動物の中に巡る「氣・エネルギー」のことです。



最近では、細胞の奥に光を貯蔵する場所があり、光とは「氣・エネルギー」であることも科学的に分かってきています。

ここで科学的根拠を持ち出さなくてはならないことは悔しいですが、これから話す「光の呼吸」が単なる空想やイメージだけの世界と捉えて頂いては、なんとももったいなく感じるからです。



光が、いのちをまわしている張本人であることに、ヒマラヤのジャングルで氣がついたのでした。




そして、そのエネルギーは、口から食べものとして吸収することも出来るのですが、呼吸で手に入れることが出来ることが体感を通して分かりました。




僕は、「光の呼吸」と名付け、日々光を吸い込んで暮らしました。



体は息を吹き返したように、奥底から元氣になってゆくのが一日ごと違いで分かりました。
節々のゆるみが加速していくのが分かりました。



体の内側へ意識を送ると、吸い込んだ光は、頭の頂点から脊椎を照らしながら通り抜け、体の隅々まで広がってゆきます。


不調や、病氣がある場所は、暗く、闇のように意識できました。



古来の日本では、病氣のことを「病み」と呼び、暗いことを「闇」と呼び、文字の無かった更に古代は「やみ」一言で両方を指し、区別は無かったとききます。




下山後、発見した「光の呼吸」は誰かが同じように発見しているはずだと感じ、インターネットで「光の呼吸」と検索してみました。

鼻息は荒めでしたが、結果、もっと荒くなりました。



既に多くの方々が実践しておられ、「万病を治す呼吸」「ガンすら治る呼吸」「若返りの呼吸」「意識を浄化する呼吸」とあらゆる方面からこの呼吸を取り上げていました。


ただ、科学的根拠が薄いため、宗教的に思われている団体も少なくないといった様子でした。





春になり、太陽の光が力強さを一層増してくるこの時期、もう表現していっていい時期が来ているように感じています。




「光の呼吸瞑想」
クラスでは、時折取り入れています。



これからこちらのブログでも、やり方を綴っていけたらと感じています。

どうぞ、今後も宜しくお願いいたします。


今回も、最後までお読みいただき、ありがとうございました。



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