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〈生き方のstyle〉

生き方は、違っていい。違いこそ、豊かさ。自分に還れば、皆違う。自分を変えようと旅をした。旅は瞑想に導き、僕は僕に還ることにした。

〈自分の世界を取り戻し、自分の世界を守ること〉

こんにちは。

TAMAKARA YOGA~魂と体をつなぐyoga~のクラスを開いています、山崎大です。


ヨガと瞑想のクラスで、なにを目指しているのか。
目指している場所をこちらに綴っておきたいと感じ、今回のブログを始めていきます。

目指す場所ですので、氣合いを入れて書きます。
そのため、少し長いです。

お時間のあるときに、お読みいただけたら幸いです。

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瞑想で目指す場所は、瞑想をする人により様々であり、
「こころ穏やかに日々を過ごすこと」
「自分を見つめること」
「悪習間や中毒から開放されること」
はたまた
「超能力を手に入れること」
など様々かと思います。


そのいずれの目的も瞑想を行うことによって達成可能かと思うのですが、わたしがクラスで行う瞑想で目指している場所というものがあります。


何を目指しているのか初めに申し上げると、
「自分の世界を取り戻し、自分の世界を守ること」
を目指しています。


「???」
「自分の世界を取り戻す?世界が奪われているってこと?」
「自分の世界を守る?どういうこと?」
とお感じになる方も多いと思いますので、順を追ってひも解いていきたいと思います。


では、いきます。


話を進める上で、「わたしたちは、一人ひとり違う世界を生きている」
ということが、ベースとなりますので、初めにそちらをインドに伝わる昔話を例に用いながら話を進めていきます。


以下、インドに伝わる昔話です。(うろ覚えなので本来の形とは違う可能性が大いにありますが、話の筋は通します。)


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とあるインドの片田舎に、2人の少年が居ました。

少年たちに親はなく、日々物乞いをして生活をしていました。

少年の一人は、生まれた時から目が見えませんでした。

2人は協力し合って、生活していました。

ある日、いつものように町へ物乞いに出かけようとしましたが、目の見えない少年は体調を崩しています。
「今日は、体が重たいよ。町へ出かけられそうにないなあ」
目の見えない少年は、そう言い辛そうです。

「そっか、じゃっ俺がお前の分も稼いでくるからよっ。心配すんなっ。」
目の見える少年はそう応え、ひとり町へ出かけました。


町は賑わっていました。

その日、ちょうどお祭りの日だったのです。

人が群がっている場所を覗き込むと、おかゆを配っています。

「うわー!うんまそうだなあ。おいらにひとつおくれ。」

少年はおかゆを手にし、喉に流し込みました。

「これはうまいなあ。もうひとつ、おかわり!!」

おかわりを平らげていると、ふと、待っている目の見えない少年のことを思いました。

「ああ、あいつは体を崩して寝ているんだったな。こんなうまいものを持っていってやったら、きっと喜ぶぞう。」

そう思いましたが、お椀を持っていないことに氣がつきました。

「まいったなあ。お椀がないと持って帰れないや。ま、いっか。あいつのことだし、許してくれっだろう。」

帰った後、少年は今日の出来ごとを正直に話しました。

「今日な、出かけた町でお祭りだったんだ。そこでおかゆを配っていてなあ。それが、ものずげーうんまかったんだ。お前にも持ってきてやりたかったんだけど、お椀もなくてよ、全部食べちった。」

少年がそういうと、

「そう、今日はお祭りだったんだね。それは、いい日だったね。僕も、そのおかゆ、食べてみたかったなあ。だけど、そんなにおいしいおかゆって、どんなおかゆなの?教えておくれよ。」
目の見えない少年は、訪ねました。

「そうだなあ。あのおかゆは、あったかくてなあ、ふわふわしてて、そんで白いんだよ。」
少年は答えました。

「あたたかくて、ふわふわしてて、白いんだねえ。。あったかくて、ふわふわしているのは、僕も分かるのだけど、その白いってどんなことを言うの?」
目の見えない少年は訪ねました。


「ん?白か。ん〜、白はなあ。黒じゃねんだよ。赤でもねえし、とにかく白なんだよ。」
少年は答えます。

「うん、でも僕には、黒も赤もどんなものか分からないよ。白っていったいどんなものなんだろう?」

少年が答えに詰まっていると、ちょうど目の前に白い鶴が通りました。

少年は鶴を捕まえてきて、「こいつが白ってやつだよ」と目の見えない少年に渡しました。


目の見えない少年は、鶴を撫でながら

「ああ、これが、白なんだねえ。白って言うのは、あったくてふわふわしているんだねえ。そうか、白は、あったかくてふわふわしているものなんだねえ」

と言いました。

とさ。

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お読みいただきありがとうございました。

以上がインドの昔話です。

わたしたちは人と関わるとき、共通の認識を用いコミュニケーションを図ります。

けれど、「誰にとっても共通なこと」というのは、インドの昔話が示すようになにひとつとしてないのが事実なのだと思います。


例えば「おいしい」や「かわいい」といった感覚は、人により千差万別です。

もちろん「セクシー」という感覚も人により違うものです。
髪の毛を隠す風習のあるイラン人は、スカーフから僅かにのぞく髪の毛が最高にセクシーなのだと言います。

イランを旅していた当時、わずかに覗く女性の髪の毛についておじさんに熱く語られた日は、さすがにカルチャーショックでした。
わたしがグッピーであったら、そのままショック死しているところでした。

しかししばらくイランにいるうちに、イラン女性が意図的に髪の毛をチョイ出ししている意図も見え隠れし、通りすぎざまの心理的な男女の駆け引きがそこに存在しているのだと氣がつき、髪の毛を見るだけで「確かにセクシーだ」と深く頷く自分が居るようにわたし自身の感覚も変化していきました。

蛇足に次ぐ蛇足ですが、髪の毛を見ただけで、「セクシー」と感じてしまっていたわたしは、イランの次の訪れた「世界一ビジョの多い国(しかもそのおおくが奔放な装い)アルメニア」でいとも簡単に撃沈し、3、4日の滞在予定が、十倍に伸びてしまいました・・


冗談はさておいて、わたしたちの感覚は、人によりまるで違います。

そして、それが自然なことです。


感覚どころか、インドのたとえ話のとおり、「白」という一見誰もに共通しそうな事柄でさえ、人により捉え方は違います。

大げさでなく、耳の聞こえない人には、「音」はなく、目が見えなければ、「色」はありません。



世界に色はある!!

とどんな権力を用い宣言した所で、「ない人にはない」が事実です。



同様に、「正しい」も「間違い」も「かっこいい」も「おいしい」も共通するものなど一切ないのです。


その人が、こころから「正しい」と感じたことが「その人にとって(その人の世界)の正しい」なのです。

そこに、理論や法律の出る幕などありません。


つまり、「常識」や「普通」というものは、
あった方が、多くの方が共通に話をする上で便利だから、あることにしているもの
に過ぎないというのが事実です。



「常識」も「普通」も本当はなく、虚構です。



にもかかわらず、わたしたちの生きる社会では、この「常識」や「普通」が力を持ちすぎてしまっているのです。


本当にはない虚構にも関わらず、本当の世界(個々が感じている世界)に侵入し、人によっては食い尽くされてしまっています。



「おいしい!!」と感じたとき、それをそのまま声高らかに宣言できるでしょうか?

それが流行っていないお店で飲んだみそ汁であったときと、5つ星レストランで食べた高級な料理であった時を想像してみてください。


「5つ星レストランはおいしい」

「流行っていないお店はおいしくない」


常識とはそんなものです。

ですが、真実は、「あなたがどう感じたか」と言うことに尽きます。


「5つ星レストランで食べたけれど、まずいと感じた」ならば「まずい」でいいのです。

「まずいと有名で流行っていない店(そんな店があるのかはしりませんが)で食べたけれど、ほっぺたが落ちるかと思った」
なら、それがあなたの真実です。


「まずい」と感じたのだけれど「5つ星レストランだし・・わたしの味覚がおかしいのかな?」となっては、虚の世界に食われていることに氣がつく必要があります。



「〜が正しい」
「〜は間違っている」
「〜は格好いい」
「〜を食べるのが良い」


そんな虚構で世の中は満たされてしまっています。


個々の力は、比例して弱まっています。


「○○が正しいとわたしは思う!」
という時に、理論や科学的根拠を持ち出す必要は本当はありません。


「○○が美味しい!」
というときにそのレストランの評判を氣にする必要も、全くありません。



「あなたが、美味しいと感じたこと、あなたにとって栄養となりあなたが正しいと感じたこと、あなたがかっこいいと感じたこと。」
そのすべてが信じるべきものであり、それこそが世界です。



世界に皆にとって共通なこと(常識)などあり得ないのですから。






一人ひとりが違う世界を生きている。


それが揺るぎない真実です。






だからわたしたちは、共感してみたいのです。

他の人はどう感じているのか、確かめたいのです。

だからこそ、会話をするのです。

もし、「○○がおいしい」と答えが決まっている世界であるのなら、必要なのは答え合わせでだけであって、会話ではありません。





瞑想は、瞳を閉じる所から始まります。

外との繋がりを一旦切断し、内側で本当に何を感じているのかを眺めてゆきます。

いろいろな価値判断や、思考の癖、そういったものが常識から植え込まれたものであることを発見しながら、奥深くに今も居る、本当の自分へとアクセスしてゆきます。


瞑想は病氣を治すことで今では有名になってきていますが、病とは、「こころを否定してしまっている状態」から多くは引き起こされます。

「本当のこころ」を発見し、守ってゆくこと。

それは、
「常識という本当にはない虚の世界から、自分の世界を取り戻し、自分の世界を守ること」
に他なりません。



感じたことを、堂々と、胸を張り、誰もが高らかに宣言してよいのです。




クラスでは継続して瞑想を続け、
「自分の世界をはっきりと取り戻すこと」
を目指してゆきます。



ご興味のある方は、どうぞ遊びにいらしてください。

なぜか最後は宣伝になってしまいます。

愛嬌としてお許しください。

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今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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