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〈生き方のstyle〉

生き方は、違っていい。違いこそ、豊かさ。自分に還れば、皆違う。自分を変えようと旅をした。旅は瞑想に導き、僕は僕に還ることにした。

〈意識的に、狂うということ〉

ダンシングメディテーション

こんにちは。

TAMAKARA YOGA~魂と体をつなぐyoga~のクラスを開いています、山崎大です。

今回は、「意識的に狂うこと」について綴っていきます。

お時間のあるときにお読みいただけたら幸いです。


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クラスではことあるごとに、両目を上に向けたり、あくびをするときのように口を大きく広げたり、手足をぶらぶらさせながら「あーー」と声を出したり、鼻のてっぺんを見つめたり・・

変な動作と言うか、通常の私生活ではしない動きをしていただいています。


必殺技と呼んでいる、とっておきの変な動作もあり、それは近いうちにクラスでも表現できたらと思っています。


なぜ、変な動作を毎回のように動きの中に加えているかというと、それなりに訳があります。


変という文字を辞典で調べてみると「普通と違うさま」「様子がおかしいさま」と出てきます。


本当は変もへったくれもないものだと思っているのですが、わたしたちは「普通」という規準をもとに物事を捉え、その「普通」から外れると「変だ」と感じる訳です。



なので、おしりをコップの水と手を使い
「ウォシュレットは古代より、わたしたちによりすでに実践済みだ」
というインド人を見たときや、
手で食べものを掴み
「まず、手のひらで味わう。これをしないなど神聖な食べものに対する尊敬を忘れている」
というインド人を見たときに、「変だ」と思う訳です。
インド人に限定してしまい、インド人の方、ごめんなさい。



ですので、場所や状況が変われば「普通」も「変」も変わってゆくものです。

けれど、通常は一つの国や一つの地域に根ざしていきているのが人間です。

その場所に存在する「普通」であることを覚え、その枠組みから出来るだけ出ないように、皆氣を使って生きています。

これは日本人に限らず、インド人もそうです。

インド人にもインド人の普通があり、インド人も氣を使って生きています。(そうだといいな)



なぜ、そうも皆「普通」の中に収まろうとするのか。


それには、人間がそもそも動物であるという点が源になっていると僕は思っています。


単純に皆と違う行動をとることで、「目立ち」ます。


「目立つ」ということは、動物(特に草食動物)にとっては、いのちを脅かします。
できるだけ、皆と同じように目立たずひっそりと集団にまぎれていた方が、外敵に見つからず、いのちを長らえることが出来るというのが道理です。


わたしたち人間もご多分に漏れず、「生存本能」が宿っており、集団という安心の中にひっそりと入っていたい。
つまり、「集団のお仲間に入れておいて欲しい」のです。


ですので、この「生存本能」が目立つことを嫌がるのだと僕は思っています。



「でも、目立ちたい!!」という方、よくよく見つめてみると、それは「良い意味で目立ちたい」ということに限定されているはずです。

「どんな評価を得ようと、ただただ、目立ちたい!!」という方は、そうはいません。


「良い評価を得ることが出来るという状況を真似し、目立つこと」は、「良い評価を得ることが出来る集団(意識)」のお仲間になることでしかなく、結果的には、集団(意識)に属し身を守っている状態です。


つまり、わたしたちは、その場その場存在する「普通」の中に入り込んで、目立たず身を守りたい訳です。
それが、生き物としての「本能」の働きだと思うのです。


けれど、何を隠そうわたしたちは「人間」です。
本能だけの存在ではありません。

本能だけの存在である動物たちには、悩みはないとされています。
本能に従うだけですから。


人間は、「悩み」ます。
本能を持ちながらも、「こうありたい」「表現したい」「感動したい」というこころを持っている存在だからです。


そして、「こころ」は、誰しも独自性を持っています。

皆と同じように出来てはいません。


皆と同じようにひっそりと生きていれば、肉体として「生きながらえる」ことは可能です。

けれど、「こころ」の独自性は、それでは不満なのです。

肉体としての生存本能と「こころ」の独自性を持つが故に、人間は「悩む」ことが出来る唯一の生きものであると僕は思っています。


肉体は肉体を存続させる意志を持ち、「こころ」はそれぞれに独自性を持っています。

その観点から見ると現代は、肉体の生存本能優位に動いており、「こころ」の独自性を十分に発揮することがし辛い社会であることが言えます。

ストレス社会と言いますが、「ストレス」とは、「こころ」が押さえ込まれ不自由になっているときに感じるものではないでしょうか。


ピカソ岡本太郎などの、爆発した芸術性は「こころ」の躍動そのものであり、だからこそわたしたちの心を打つのだと思うのです。


「普通」という観点から見たら、彼らの表現は「変」であり、「狂って」います。

それは、彼らが「こころ」を自由に表現した結果であるからだと思うのです。




「こころ」とはそれぞれに独自性を持ち、「普通」という観点から見たときに誰しもが「変」で「狂って」います。

「変」で「狂って」いるにも関わらず、「普通」なふりをして身を潜めているのが、わたしたち人間なのです。
そうやってみると、なんだか可愛らしいですね。



ですので、僕のクラスでは、わざと「変な動き」や「狂っている動作」をすることで、本来の「こころ」へとアクセスしてゆくという目的があります。

前回のブログでも紹介したoshoはこれにいち早く着手しており、変な動きや踊りを取り入れていたようで、集り来る人々の精神疾患のことごとくを取り去っていったと聞きます。


変な動きや、狂った動作をする時、「いやだな、やりたくないな」と感じるものもあるかと思います。

その「いやだな」という感覚を見つけ、捉えていただけたらと感じます。

その後ろには、「こうあるべきだ。こう見られたい」という「制限」や「自分とはこういうものだ」という固定された考えがあります。

その固定化された考えが、苦しみや悲しみ、怒りを生み出しています。


「いやだな」という感覚に氣がつき、薄皮をはがすがごとく、制限がはずれてゆく。
その先には、苦しみや怒りが減っていき、本当の笑顔が待っているのだと信じています。


クラスにご参加いただけます方、「変」で「狂っている」動き、これから増えてゆくことが予測されます。
どうか、お付き合いいただけましたら幸いです。

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今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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