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〈生き方のstyle〉

生き方は、違っていい。違いこそ、豊かさ。自分に還れば、皆違う。自分を変えようと旅をした。旅は瞑想に導き、僕は僕に還ることにした。

インドエピソード〈踊る瞑想体験〉

インドエピソード

TAMAKARA YOGA~魂と体をつなぐyoga~のクラスを開いています山崎大です。

インドでの旅の中でダンシングメディテーション(踊る瞑想)と出逢い、大きな感銘を受けました。

出逢いから体験までを綴っています。

前回からの続きとなります。

前回をお読みでない方は、「インドエピソード・ダンシングメディテーションとの出逢い」からお読みください。



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Osho瞑想センターでの朝は、6時から始まりました。


ルンビニは開けており、遠くの地平線から太陽が顔を出し、また地平線へ太陽が沈んでいきます。


亜熱帯特有の湿氣を含んだ朝の匂いを吸い込みながら、赤い朝日に一礼し、瞑想ホールへと向かう日々でした。



朝一番から「ダイナミックメディテーション」という最高に激しい瞑想が始まります。


宇宙音にも電子音にもとれる妖しげな音楽が建物を揺らし、その爆音の中でジャンプし続けます。


口からは「はっ、はっ、はっ、はっ」(正しくは「ふ」の口で「は」を発音)
と大きく息を吐き出しながら、飛び跳ねていきます。


途中カタルシス(発散浄化)というシーンがあり、獣のように叫び声をあげます。

叫び声は「うわー」とか「きゃー」とかいった可愛らしいものではなく、咆哮と呼べる類いのものです。

「うぐぉろぐぁおーーーーーー!!!!!!!ぎょえええいいいいい!!!げえろげろ!!」
のような感じです。


胸を掻きむしり、口からはよだれを撒き散らしている方々もいらっしゃいます。

「ああ、完全に狂気の沙汰だ。変な所に来てしまったな。」
「僕は、そうはいっても正常な人間だから、ああいう下品なまねは出来ない。」

と僕の中に住む防衛本能が身を守ろうと語りかけてくる一方で、


「とうとう本物と出逢えた!ここで僕はもう一つ次の段階へゆけるのだ!」

と喜んでいる僕が居たことを覚えています。




始めて数日のうちは、僕の中に住む防衛本能が顔をよく覗かせていました。


「そう、あの人たちは狂っているのだ。だからあんなによだれを垂れても平氣なのだ」
「インド人やネパール人は、元々そういう氣質なのだろう。日本人はおしとやかだから。」

と、時々薄目を開けて周りを伺いながら、変に浮かない程度に合わせながら体を揺すっている自分がそこには居ました。




ある日、いつものように爆音の中で飛び跳ねていたときのことです。




怒りが沸き起こり、押さえきれなくなりました。

「あ、これを出してしまったら、きっとまずいことになる」

と僕の中の防衛本能がブレーキを踏もうとしていることも分かっていました。



「ぎょえええいいいい!!!!ぐおろぐぉがーーーー!!!」
雄叫びと伴に、内側の怒りがブレーキをはね飛ばしていました。



「ああ、僕は今狂っている、今日初めて来た方には惨いものを見せてしまったな、申し訳ない」

とすこし離れたところから見ている僕が居ながらも、僕は獣同然に咆哮し続け、口からはよだれを撒き散らしていました。




そんな瞑想の後、遠く地平線を眺めながら朝日を浴び、チャイを啜る中でいろいろなことに氣がつきました。



僕たちは、この地球という自然の中に生まれ出た生き物であり、もともと100%自然の存在なのだ。


自然であれば、笑いたいときに笑うのがいい。

泣きたいときに、泣くのがいい。

怒りがあるなら、怒るのがいい。

それが、自然なのだ。




けれど、現代はそれが叶わない。

怒りは押さえ込まれ、笑いも場をわきまえよと封じられ、泣くこともそう容易くはない。

押さえ込まれたそれらは、時と伴に消えてゆくように感じられるかもしれないが、決して消えていないのだ。


体のある部分に蓄積されている。

それの多くはお腹に貯まっている。



日々大きな咆哮を続け、お腹が大いにゆるみ呼吸が深くなるごとに、実感を持って理会していきました。


姿勢も自然と改善されていきました。



「姿勢を正せ」とは良く聞くところですが、姿勢とは、無理して正す類いのものではいと今は感じています。



自由に感情や内側を表現できることを確信と伴に実感するごと、緊張や制限は外されお腹はゆるみ、胸は開き、呼吸が深くなる。


そうしたとき、自然と姿勢は正しくなっている。


姿勢とは、結果なのだと
今は、そのように捉えています。



一月をoshoの瞑想センターで過ごした僕は、そのままヒマラヤの奥地へと足を運び、ヒマラヤに囲
まれながらダンシングメディテーションを続けていました。



どういう訳か、僕のお世話になっていたご家庭には、村とも呼べない集落にも関わらず、それなりのサウンドシステムが用意されており、毎日のように僕は爆音と伴に体を揺すり叫んでいました。



村人たちは、所構わず踊り狂う僕をおもしろがってくれました。



次第に咆哮のような叫びは姿を消し、ただ体を音に合わせ揺するようになっていきました。



ある日のこと、いつものように最大音量で音楽を流しながらダンシングメディテーションをしていたときのことです。



20分程でしょうか踊り続け、音楽が切れた所で動きを止めると、突然拍手喝采を浴びました。



我に返り、辺りを見回すと、20人程の子どもたちや村人たちが円になり僕を囲み、ずっと見学していたようでした。


「ワンモアプリーズ!ビューティフル!!!」



と多くの賞賛を頂き、戸惑いながらそそくさとその場を後にしたことを思い出します。


その時の僕のダンスは、集り拍手をしてくれた方々の表情から察するに、そこそこビューティフルだったのだと我ながら思います。


「ダンスとは、内側の躍動が体に伝わったものに他ならない。」

「ダンスと言えば、外側から型を覚え、その型通りに体を動かすことを通常は連想するのではないだろうか。けれど、その本質はこころであり、こころが踊り躍動し、それが体を通じて外側に現れたものなのだろう。」

自身のヒマラヤでのダンス体験から、今ではそのように思っています。



無我夢中の状態で音に身を委ね体を揺すり続けていた僕の体は、ますます弛んでいきました。



ときどき、骨から全ての筋肉が浮き上がり、遠心力も助けとなり、普段意識できないような筋肉まで「とうとうわたしを見つけたね」と声を出すようなシーンもありました。



ダンシングメディテーションは奥深く、その恩恵も計り知れないと感じています。




僕自身もより、瞑想とその理会を深めながら、今後もダンシングメディテーションをクラスで扱っていけたらと思っています。


ご参加いただけます方、最初の頃は「こんなことさせて、どうするつもりだろう?」であったり「なんだか妖しい儀式みたい」とお感じになることもあるかもしれません。



ですが、続けてゆくうちにその声の主が、体に住み着く防衛本能の声であることを見抜き、瞑想の恩恵に触れる機会が出て来ると信じています。

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今回は、ダンシングメディテーションについて綴りました。

最後までお読みいただけましたこと、ありがとうございました。


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