〈生き方のstyle〉

生き方は、違っていい。違いこそ、豊かさ。自分に還れば、皆違う。自分を変えようと旅をした。旅は瞑想に導き、僕は僕に還ることにした。

〈年末年始インド旅〉希望者募集いたします☆

インドは、好き嫌いがはっきりと分かれる国だと言われる。

 

 

大嫌いな国、インド。

大好きな国、インド。

 

 

わたしはと言えば、大嫌いだったことも、大好きだったことも。

 

今はただ、インドという国がこの世界に存在していることに感謝を感じる。

 

日本と真逆な国。

常識が通用しない国。

人生観が変わる国。

 

ここまで様々な呼び名が与えられる国もそう多くはない。

全大陸を歩き、多くの国々を訪れた中で、何度も足を運んでしまったのは、確かにインドだけであった。

 

 

インドは、カレーのような国だと感じている。

 

大人も子どもも、女も男も、どちらでもあるものも、どちらでもないものも。牛も馬も、猿も鳥も、犬も猫も、豚もヤギも・・。

 

あらゆるものが、インドというスパイスの中でぐるぐるとかき混ぜられ煮込まれてゆく。

 

 

その姿は、混沌そのもの。

 

 

 

カレーは良く、う○こと形容され、その地位を貶められる。

からだに入れる姿と、出てくる姿に差が感じられないところがその所以なのだろう。

 

 

インドでは、う○ことカレーを避けて旅することはできない。

 

カレーは必ず食べるし、う○こは必ず踏む。

それにカレーを食べて、下痢もまずする。

 

 

でもインドは、う○このような国ではない。

 

やはり、カレーのような国だ。

 

見た目は、混沌そのもの。

 

見ているだけでは、う○こと見間違う。

 

 

ただ、一歩足を奥に進めれば、そこには自由が広がっている。

 

 

うん、まずくはない。

これもありだ。

 

 

そう感じていただけたら、インドはカレーのような国だと感じていただけるだろう。

 

あらゆるものが、同時に存在し、混ざり、混沌とし、それでいて完成している。

完成とは、混沌であり、変化であり、決して完成しないことであることなのかもしれない。

 

 

インドは、価値を揺さぶる。

 

生き方を、揺さぶる。

 

 

良くも悪くも、死ぬまで忘れない。

 

人生の1ページになる、そんな旅を伴にできることを願っています。

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旅程や詳しい内容は、下記リンクをご覧ください。

 

インド砂漠オアシスYOGAの旅.pdf - Google ドライブ

 

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インドに興味がありながら、いままでいく機会がなかった方々へ向けて。

インドで騙されたり、熱に、腹痛におかされたり、折角の旅が病院の天井を見つめるだけの旅に終わらないように。

インド初心者の方が安心してインドが楽しめるように。それでも、インドの濃さ、猥雑さ、混沌が感じられるように。

「次、インドへ行くときはひとりでも行ける。」そんな自信も得られるように。

通常のインドツアーでは組まれることのない、プシュカルという街へご案内いたします。

プシュカルは砂漠にぽつんと存在するオアシスの街。

神々が存在する信仰の聖地。広大で荒々しい自然に囲まれる場所。

 

わたしも多くのときを過ごした、大好きな場所です。

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期間:

2016年12月28日~2017年1月3日

 

募集人数:

8・7・6・5・4・3名様

 

費用:

お一人様 170、000円

ビザ・パスポート申請料、空港までの旅費、現地での個人的食事、買い物等は各自の負担となります。

 

年末年始であるため、航空券代金が日々高騰してゆくことが予想されます。

こちらの価格は、2016年9月20日までにご登録完了した方のみのお値段となります。

ご了承ください。

それ以降に申し込まれる方は、お値段のお問い合わせをお願い申し上げます。

 

また、募集人数に達した時点で今回の旅は閉め切らせていただきます。

ピンと来た方は、お早めにお申し込みください。

 

ご入金いただいた後のキャンセルは、大変申し訳ないのですがお受けできません。

お休み等のご調整を確かになさった上で、お申し込みください。

 

 

ご希望の方は、以下のフォームをご送信ください。

メールにて、振込先等の詳細を返信させていただきます。 

決めたこと、実行していきます。

こんにちは。

 

Tamakara yoga~魂と体をつなぐyoga~のクラスを開いています、山崎大です。

 

とても久しぶりにブログを書いています。

 

最近はとても暑いですね。

 

夏真っ盛りです。

 

日中はインドにいるような氣持ちになれます。

 

朝晩は涼しくなるので、安曇野はいいなあ。と毎日のように感じます。

 

 

最近出歩くことが増え、そんな中で自分を見つめる時間を取っていなかったことに氣がつき、自分の思いを整理するためにも、今感じていることをこちらに残しておきたいな。そんな思いで綴っていきます。

 

お付き合いいただける方、とてもありがとうございます。愛しています。

 

 

先日、とある用事があり久しぶりに都内へ出ていました。

 

満員電車というものに久しぶりに乗ってみました。

 

 

 

苦しかったです。

 

 

 

なんでしょう。

 

 

 

都内に住む方々。

 

スマホを見つめ、背筋は曲がり、どこか不健康そうな方が多いなと感じました。

 

 

それは、海外の長旅から帰国した時に一番に感じる日本人の異様さで、それを再び感じたのでした。

 

 

 

 

 

この国は異様だ。

 

 

 

 

はっきりと、そう感じたことを思い出します。

 

 

 

多くの方が、スマホの画面を覗き込み、背を丸め、外側に広がる世界にはもう飽きていました。

 

飽きていても、そうせざるを得ないかのようにただひっそりと息をして、知らない人と話さないことがさも当然であるような顔をして。

 

 

感動は、ずっとどこかに置いてきてしまったかのような顔たち。

 

 

 

 

生きる躍動。

 

沸き上がる夢。

 

 

そんな言葉は、冷たい目線と失笑でかき消されてしまうかのような。

 

そんなデジタルで温度のない空氣を感じたことを思い出したのでした。

 

 

 

 

この人たちは、もうだめだ。

 

 

そう感じたことも覚えています。

 

 

 

 

僕は世界を旅した。

 

三年余りの月日を費やし、70もの国々を旅した。

 

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暮らす人々の顔。

 

瞳。

 

生活から沸き上がる熱。

 

自然の織りなす風景たち。

 

それらが体の中心を突き抜けていった言葉にできない感覚。

 

 

生きることの意味を知った。

 

 

生まれてきて、こころから良かったと感じた。

 

 

喜びが胸を満たし、

感動にうち震えて、涙した。

 

 

夢が生まれた。

 

 

 

正直に告白すれば僕は、世界を旅する前に、このいのちを断とうとしたことがあった。

 

未来は真っ黒な光で、遠くまで照らしつくされているように当時の僕には見えた。

 

 

生きていること、明日を迎えることは苦痛で、それは絶望という名前がぴったりだった。

 

 

生きることをやめるのか、世界を旅するのか。

 

 

そんな2択を突きつけたとき、自然と足は旅へと向いていたのだった。

 

 

旅が、僕を少しずつ癒した。

 

異国に触れることは、僕自身を見つめることにつながっていた。

 

違うものに触れ、自らを知った。

 

人々の善意に触れ、こころが溶けていった。

 

 

 

癒されながら、この世界から消えようとした僕は、消えていった。

 

 

 

同時に、むくむくと大きくなるものを感じていた。

 

 

僕は、世界を旅した。

 

僕は、生きることの意味を知った。

 

僕は、僕は・・

 

 

エゴが、太り出していた。

 

 

この国は異様だ。

 

この人たちは、もうだめだ。

 

 

そんな高飛車な思いが脳裏をかすめるようになっていた。

 

 

かつて自分自身がそうであったことも忘れ、高飛車な思いに浸っているとは。

 

 

 

 

 

世界を旅しようと思えたことも、そこから感動を感じることができたのも。

 

 

 

 

日本の異様さが僕に苦しみを与え、生きることの本質に向かわせてくれたお陰。

 

世界中を三年もの月日、旅をさせてくれたのは、日本の円が確かな価値を持って世界で通用したお陰。

 

その円の価値を守っているのは、満員電車でゆられる人々の日々の営みのお陰。

 

 

 

 

彼らが、僕を異様な世界から逃がしてくれていたのだ。

 

 

 

 

僕は、この社会から逃げ出し、社会の異様さを知った。

 

 

 

この世界に生きながら自由を感じ、こころを豊かにする術を知ることができた。

 

 

 

それは、三年もの月日異国の中で、ヒマラヤの中で、仕事もせず朝から晩まで追究に没頭できたそのお陰なのだ。

 

 

与えてくれていたのは、今社会の中で揉まれている方々。

 

人によってはその中で生きる意味を見失い、失望もしているのだろう。

 

そのお陰で、僕は多くを知った。

 

学ばせて頂けた。

 

 

頂いたものを、自分だけのものにしていた。

 

 

どうにかお分けしよう。

 

 

それが、今の僕ができる恩返しというものだろう・・

 

 

 

そう思ったのでした。

 

 

脳卒中を初め、旅の中でもいのちの危機をいくつか感じたことのある中で、時々思い出します。

 

 

もしあと、数年のいのちだとしたら何がしたい?

 

 

今やっていることは、数年後、終わりが来ると知りながら続けるのだろうか?

 

 

即座に解答が出せないときが続いていたように感じました。

 

 

今やっていることに、疑問を抱いたのでした。

 

 

そんな中で、ブログを綴ることにためらいが生まれ、今日に至るまでしばらくの時を置いていました。

 

 

 

 

 

 

今、手にされる方が瞑想の恩恵を受け取ることができるCDを作成中です。

 

 

僕がこの世界の最後の日まで表現するとしたらやはり瞑想の恩恵。

 

 

この世界に生まれてきた、その理由を知る道。

 

 

自分らしく、本当のわたしの笑顔に還ることのできる道。

 

 

それが、僕が出逢った瞑想でした。

 

 

 

そしてそれは、できることならば多くの人に。

 

 

 

都会に暮らす、日本の経済を守ってくれていた方々に向けて。

 

変わりたい。

もっと自分らしく、良くなりたい。でもその方法が分からない方々へ向けて。

 

 

 

少しずつ仕上がり、ジャケットも決まり、もう少しでお手にしてもらえる状態へと昇華させています。

 

 

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タイトル「medicine meditation~はじめての瞑想~」 

 

 

 

 

 

 

もう一つ抱いている夢。

 

 

 

インドへ、お連れしたい。

 

 

70の国々を旅した中で、強烈にインパクトであった国。

 

 

生を、死を、その鼓動を肌で感じ、文字通り生きることの意味を見せつけられ、人生を好転させてくれた国。

 

 

 

ディープな暮しの中へお連れする「武者修行的ツアー」計画しています。

 

こちらもピンと来た方と、ご一緒できたら。そんな思いで計画中です。

 

 

 

瞑想をお伝えすること。

 

 

旅を、インドの世界を、お伝えすること。

 

 

もし、数年後に終える命だとしても続けること。

 

迷いなく生まれ出た答えでした。

 

 

 

こちらのブログを通し、進み具合を少しずつ、お伝えさせて頂きます。

 

 

最後までお付き合いいただき、感謝いたします。

 

これからもどうぞ、よろしくお願いいたします。

 

 

 

山崎大

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こんにちは。

 

たまからyogaの山崎大です。

 

瞑想・yogaは、なぜいいのか。

 

日常にどのように取り組むことで、生きた力となるのか。

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ブログよりもシンプルに。

 

瞑想とyogaを綴っていく予定でいます。

 

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自然の言葉「ほんとうのわたし」

 

 

こんにちは。

 

Tamakara yoga~魂と体をつなぐyoga~のクラスを開いています、何者でもない山崎大です。

 

以前、インドの自然に囲まれ瞑想の旅をしていた際に、自然からメッセージを受け取ることが時々ありました。

それらを当時、文にして綴っておりました。

 

一つの表現として、どこかに残しておきたく感じましたので、折りをみてこちらに載せていきます。

 

お付き合いいただけたら幸いです。

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 

 

自然からの言葉「ほんとうのわたし」

 

 

あなたは、わたしを教わってきた。

 

 

両親から学校から、他にも様々な場所から。

 

 

あなたは、わたしを知っていると思っている。

 

 

 

あなたは、わたしに付けられた名前を覚え、その働きを教わり記憶した。

 

 

その瞬間から、わたしはあなたの前から姿を消し、あなたの元には名前とその働きだけが残った。

 

 

 

あなたは、空に輝くわたしを見たときに「太陽だ」と言う。

 

 

あなたは、地面に佇むわたしを見て「土だ」と言う。

 

 

 

 

あなたは、わたしを見ているつもりかもしれないが、それは、太陽であり、土なのだ。

 

 

それらは、あなたが教わった働きの外側に出ることはない。

 

 

 

わたしは、名前など求めたことはない。

 

 

 

わたしは、あなたが名をつける前からそこに居た。

 

 

 

わたしは、存在だ。

 

 

 

あなたが、わたしに名前をつけることをやめ、あなたの理解可能な小さな範囲から解放するならば、本当の姿をもってあなたの前に現れよう。

 

 

 

 

 

あなたは、太陽が「太陽」でないことを知る。

 

 

 

あなたは、星が「星」でないことを知る。

 

 

 

あなたは、わたしを知る。

 

 

そのとき、

わたしは、あなたの肉体を通過し、魂に触れる。

 

 

 

その感覚は、あなたが味わうことのできる最も心地よい感覚となろう。

 

 

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ガンジス川の源流に近い場所

 

 

 

 

 

「開きなおる」から開くをひも解く

こんにちは。

 

Tamakara yoga~魂と体をつなぐyoga~のクラスを開いています、山崎大です。

 

今朝の安曇野は、雨が降っています。

 

6月に入り、雨が続く季節がやってきそうです。

 

くせ毛の僕は、くせ毛であることが嫌でストレートパーマをかけていた時期がありました。

 

雨が降ると、湿氣でパーマをかけているにもかかわらず髪がうねり出し、残念な氣持ちになっていたことを懐かしく思い出します。

 

今では、開き直っているため、くせ毛がさらにうねり出していく様子を微笑みながら雨を楽しんでいます。

雨のにほいも空氣に混じり、なんだか落ちついた氣持ちになります。

 

 

さて、前回に続き開き治りについて、綴っていきたいと思います。

 

 

「開く」と言う言葉には、深い意味が込められていると感じています。

 

冒頭に掲げた開き治るですが、「開く」には、同時に治ると言う意味も込められているようです。

 

音で見てゆくと、「開く」は「平く」であり、物事を収め調和させることにつながり、治るという意味が込められています。

 

 

文字を見てゆくと、「開く」は、門に鳥居と書きます。

 

では、反対の「閉ざす」はどうかと言うと、門に才です。

 

かつては、闇も「とざす」と読んだようで、意味も近い漢字です。

こちらは、門に音です。

 

才能を門の中に隠してしまうことが、閉ざすことであり、音(本音)を門の中に隠してしまうことが闇となると考えられます。

 

才能を発揮し、本音を出していったとき、闇や閉ざされた状態から「門」となり何かを受け入れる余地が生まれてくるのだと感じます。

 

 

そこに入り込むのが、鳥居となったとき、「開かれ」てくるのだと感じますが、では鳥居とは何なのでしょうか?

 

様々な諸説があり、はっきりしないのですが、一説によると神の前まで導く導き手は鳥(ヤタガラス)であると言われています。

 

ある瞑想中、空間全体にまばゆい光が溢れ、わたしの意識を持ち上げていった体験があり、その光が鳥の形をしていたことから個人的には鳥居の一説は頷けることではありますが、すべての人に共感していただくことができない内容であると感じています。

 

 

いずれにせよ、このような漢字の説は、物理的な現象世界の物事を文字に起こしたものではなく、内なる世界、瞳を閉じて感じる世界を文字という形に起こしてあるのだと言う方が理に適っています。

 

 

個人的に鳥居をひも解いてみたところ、鳥居とは、鳥が居ると書くように、「鳥の止まり木」を示します。

 

では、なぜ「鳥の止まり木」を神社の入り口に配置しているのでしょうか?

 

門の中に入れると、「開く」ことになるのでしょうか?

 

 

 

それには、鳥という生命を紐解いてみる必要があります。

 

鳥という生命をひも解いてみると、鳥とは、動物に朝を告げる役割があるということが分かりました。

 

「ちゅんちゅん」

 

「カッコー」

 

「コケコッコー」

 

朝、このような音と伴に目を覚ましたら心地いいです。

 

 

 

「ピピピピッピピピピッ!」

「ジリリリリリリリリッ!」

 

これでは、朝が嫌いになってしまうかもしれません。

 

 

氣持ちよさというものは、生体の細胞レベルでの反応ですので、体が求めているということだと言えます。

 

 

そして鳥の声は、人間のみならずあらゆる動物に朝を告げるということが分かっているようです。

 

 

 

 

 

 

その証拠に、鳥のまぶたは他の動物とは逆に開閉します。

 

人間は、シャッターが閉まるように、上から下にまぶたが閉まります。

「さようなら。おやすみ〜」の合図です。

 

鳥は、逆で上から下にまぶたが開きます。

「こんにちは。おはよう〜」の合図です。

 

まさに自然界がそのように作ったといえる仕組みだと感じます。

 

「鳥とは、朝を告げる生き物」その鳥を招き入れる止まり木が鳥居です。

 

では、鳥がとまる木というものは、どんな木かと言えば、雨風を凌げる木であり、日差しを遮る木であり、落ちついている木です。

 

木を「氣」と変えてみれば、それがこころの状態と繋がっていきます。

 

 

雨風や日差しをも受け入れる心を持ち、落ち着き、穏やかであるとき、鳥はそう言ったこころの持ち主の肩にとまるのでしょう。

 

そして、神社に入る時は、こころから伸びる両手を合わせ、こころを一つにし、鳥がとまるようなこころの状態を作ってから、一歩踏み入れてゆく。ということなのではないでしょうか?

 

そして、鳥がとまるこころを持ったとき、朝(始まり)を告げる鳥がやってきて、まさに開かれてゆく。

 

「開く」という文字には、そのような意味が込められていると感じています。

 

 

今日も、こころ穏やかに、開き直っていきたいと思います。

 

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

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開き治った体験をしたインドのプシュカルの夕暮れ。

諦めました。降伏します。言葉の世界

こんにちは。

 

Tamakara yoga~魂と体をつなぐyoga~のクラスを開いています、山崎大です。

 

6月に入り、しばらくの時が経ちました。

 

安曇野には田園風景が広がっています。

 

稲の子どもたちが少しずつ成長を始め、可愛らしく風に揺れています。

 

日増しに暑くなり、草花を始め、緑たちはエネルギーに満ち満ちています。

 

 

世界を旅していた当時、荷物を最小に押さえたいという思いと、野宿する際に寒いことに耐えられないとの思いから、その国の夏を選び、旅をしていました。

 

夏が近づき、暑くなってくると当時の旅を思うのか、旅に思いを馳せ、ふとした時に情景が重なってきます。

 

 

旅をしていたとき、本を綴っていました。

「生き方のstyleと名付けたそれは、今でも時々ご希望を頂いています。

お手に取ってくださっている方々、ありがとうございます。

 

本を綴るようになってからと言うもの、言葉というものに大層な興味がわくようになりました。

 

その興味は、瞑想やヨガと出逢ったのちにはより一層強いものとなり、わたし自身の根幹を支えてくれているように思います。

 

少し話は変わりますが、瞑想でわたしは音をとても大切にしています。

音は、空間に響く振動であり、その空間を作り出していきます。

 

音と言う振動に興味が湧いたのは、瞑想との出逢いが大きかったのですが、言葉も音であるとそのころから捉えるようになりました。

 

歴史をひも解くと、文字というものは、どうもあとから与えられたもののようで、初めはしゃべり言葉のみで会話をしていたようです。

 

世界には、多くの言語がありますが、その中で文字を持っていないものも多くあることから、文字とはあとから当てるように作られたということはうなずけることです。

 

例えば、「やみ」とは、「闇」であり、「病み」であり、もともと同じ意味で使われていたようです。

 

響きが持つ固有の振動がそもそも固有の特性を持っており、その振動に合った意味を使い、わたしたちは会話をしているのではないだろうか?

そんな思いがわたしにはあります。

 

 

大陸は違えど、音で意味が重なる事例は良くあると感じます。

 

トルコで水のことをsu(スゥ)と呼びますが、日本語では水(スイ)中国では水(スゥエー・シュイ)英語では海のことをseaです。

 

どこか音の響きに似たものを感じます。

 

 

以前記事にしたneverも英語では強い否定を示しますが、日本語の「〜(せ)ねば」も本当は〜したいというこころを打ち消す強い否定になります。

 

 

このように音には固有の振動が持つ性質があるように感じられます。

 

 

 

そして言葉に対する興味は、瞑想とヨガ行う中で更に強まっていきました。

 

 

ある日の瞑想中、明らかになったことがありました。

 

 

それは、この世界が常に変化しており、

同じように繰り返しているように見えることも、

そう見えるだけで、細かく見た時には、必ず変化している。

ということでした。

 

 

変化していました。

 

 

全てが流動して、流れながら変わっていました。

 

 

体も意識も身を包む空氣も・・全てが流動していました。

 

 

そう氣がついたとき、このままでいたい。

 

ずっと変わらないでいたい。

 

これが、これこそがわたしなのだから。

 

これを手放したら、おしまいだ。

 

そんな思いが伴にいることに氣がつきました。

 

それは、この生存できている状態を何とか守りたいと言うある種いのちの声のように感じました。

 

全てが変化し流れる中に身を委ねることは、とても恐ろしく感じました。

 

さりとて、この世の事実は全てが変化し流動しているということ。

それならばその中に身を委ねてみよう。とゆっくりと身を投げ出すことを許していったとき、「諦める」という言葉が強くこころに入ってきました。

 

 

そう、諦めます。

 

わたしはもう、諦めることにしました。

 

あとは、よろしくお願いします。

 

そんな思いでした。

 

明らかなことは、変化であり、流動でした。

 

今までを手放し、変化の中に身を委ねることは、諦めであり、明らかなことに対する、降伏でした。

 

 

参りました。完全に降伏します。

 

 

そんな、こころの呟きと伴に、変化の中へ身を委ねることを許したとき、何とも言えない至福の境地が訪れました。

 

 

体からは、全ての力が抜け去ってゆき、空間との隔たりが消えたようでした。

 

 

体はただただ嗚咽し、理由のない大きな大きな愛の中に溶け出していくようでした。

 

 

幸福とは、このことか。

と全身全霊で思い知らされた出来ごとでした。

 

 

変化の摂理の中へ、完全に降伏した時に、完全な幸福が訪れたこと。

 

 

あとで、「あきらめ」という文字を調べたところ、語源は「明らめる」となっていました。

 

 

明らかにみる。

そうしたとき、自然と今までを手放し諦めてゆく。

 

そんな思いが、体の中心を通過していったのでした。

 

 

氣がつくと、こころは開かれたように軽くなり、胸郭は広がっていました。

 

 

今まで感じていた悩みや、苦痛も、摂理への降伏へ至るために用意されていたこの世界の味わいだと感じ、それを体験させてくれた世界に感謝を感じていました。

 

 

これがまさに、「開き治る」と言うことなのだと身をもって感じた出来ごとでした。

 

 

体験の中に、言葉があり、言葉の世界を生きているような心地でした。

 

 

このような経験をもとにして、更に言葉や漢字に興味を抱くようになり、未だに個人的な探究は続いています。

 

次回は、開き治った体験をもとに、「開く」という言葉の語源へと独自の論点から迫ってみたいと思います。

 

 

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました☆

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そんな出来ごとを感じた場所。ガンジス川の源流に近いデ・プラヤーグ。

 

 

さようなら、深刻さ

こんにちは。

 

Tamakara yoga~魂と体をつなぐyoga~のクラスを開いています、山崎大です。

 

 

日増しに暖かくなり、日中は汗ばむような日も増えてきました。

さりとてここ安曇野の朝はやはり氣持ちがいいものです。

鳥のさえずりと、涼しく凛とした空氣が氣持ちを整えてくれます。

 

世界中の町に滞在しましたが、やはり今時期の安曇野はいいです。氣持ちのよいところです。

 

一番最近海外へ行ったのは半年前でしたので、もう大分日本の暮らしに慣れてきています。

 

日本の暮らしに慣れてきて、時々思うことがあります。

 

 

 

日本にいると、何かと深刻になりやすい・・

 

 

 

なにも皆がそうであるとは思いませんが、海外に比べ整った環境を持ちながらも深刻そうな顔つきの方々が多いように感じたのでした。

 

こんなにもすばらしい環境があり、緑豊かな国、日本。

 

にもかかわらず、深刻な方が多いのはなぜ・・?

 

 

 

 

わたし自身もともすれば、深刻になりやすい性質をもっておりましたので、深刻になることは可能です。

 

ですが、今は深刻さとは距離を置き、疎遠にしています。

 

ときどき、深刻さの方から距離を縮めようとアプローチしてきますが、あくまでも疎遠にしています。

 

もう泥沼の間柄になり、わたしの方から以前別れを突きつけた経緯もあり、距離をとっています。

 

 

では、どうやって深刻さと距離を置き疎遠にするのか。

 

 

そのためには、「深刻さ」とはどういう存在なのかということをきっちりと理解していることが重要になると感じています。

 

距離をとるためには、距離をとろうとしている存在が何なのかをしっかりと把握することが必要になります。

 

 

そして深刻さとは目に見えません。

 

目に見えないものと距離を取る。

 

こういう類いのものを見抜いてゆく時に、瞑想が役立つように感じます。

 

 

わたし自身が見た「深刻さ」の正体を明らかにし、お読みの方にも「深刻さ」と疎遠になっていただけたらと思っています。

 

 

 

深刻さと伴にいると感じたとき、瞳を閉じてみます。

 

「ああ、今、深刻に思い詰めているのだな」

と感じてみます。

 

それが良いでも、悪いでもなく、ただただ感じてみます。

 

次第に「深刻さ」の親元が顔をのぞかせてきます。

 

 

親元は、「まじめさ」でした。

 

 

きっと不真面目な人は、深刻にはならないのでしょう。

では、不真面目でいいのかといったら・・それもそれですので、まじめでありたいとは思います。

 

 

 

大切なことは、「真面目は、良くも悪くも作用する。」ということを感じてゆき、何に真面目であるのかを自己決定してゆくことにあると感じます。

 

 

言葉は悪いですが、「くそ真面目」という言葉があるように、くそに対して真面目であっては融通が利かず困り者です。

 

 

何に真面目であるかということが、とてもとても大切だと感じます。

 

 

信じるものに対して真面目。

きっと、これが大切なのでしょう。

 

 

今、問題なのは、信じるものが外側から与えられているということです。

 

 

「〜すべき。〜せねばならない。」というように、さも当然というかの如く、外側から与えられています。

 

 

深刻さの親元は「真面目さ」であり、その真面目さを悪用するのが「〜べき・〜ねば」という考えだと感じます。

 

 

 

こちらに関しては、「ベッキベキの壁・ネバネバのnever」で詳しく綴っていますのでお読みいただけたら幸いです。

 

 

盗みとは、盗む「べき」ではないからしないのではなく、盗まれた方の心が痛むからしないのです。

 

暴力も、人を殴る「べき」ではないからしないのではなく、痛みが分かるからしないのです。

 

 

そんな当然のことですが今の時代、ともすると忘れてしまう方が多くいるように感じます。

 

 

何かの際に「これはどうするのが正解?」ともしも思うのであれば、注意が必要です。

 

 

正解を選ぶことに慣れてしまうと、拳銃で人を見つけたら引き金を引くのが正解だと教えられていたら、その正解を選んでしまう危うさがあることに氣がつく必要があります。

 

言葉は悪いですが、それがくそ真面目であるということなのだと感じます。

 

 

深刻とは、「〜べき・〜ねば」という本来真面目にならなくてよい考えに真面目になってしまっている状況だと思うのです。

 

 

本来信じる必要のある「こころ」が置いてきぼりになり、そのこころが苦しんでいるのだと感じます。

 

「こころ」以外に本来信じるものはないとわたしは感じています。

 

こころに聞けば、今することがきっと分かります。

 

 

深刻さとは、こころが苦しんでいるというサインなのではないでしょうか。

 

 

こころには、本当は向かいたい場所があるのです。

 

 

それが、「ベキベキの壁」に阻まれ、「ネバネバの糸」にからめ取られようとしているのだと感じます。

 

そのことに氣がつき、考えのどこに「〜べき」や「〜ねば」があったのか、そしてそれらが外側から与えられた見えない檻であることを見破っていきます。

 

 

深刻さの親元である真面目さと、それにくっついている「〜べき・〜ねば」は次第にその姿を明らかにしていきます。

 

 

 

 

こころに氣づけば氣づくほど、自らに張り付いていた「〜ベキ・〜ねば」が見えてくると感じています。

 

 

こころに氣づくためには、瞳を閉じて「今のあるがままを感じてゆくこと」

 

それが瞑想だと感じています。

 

 

今のあるがままを感じ、その感じているものこそが誰の指図も受けず信じるものであるということ。

 

その時、深刻さの付け入る余地はなく、深刻さはただ立ち去ってゆくのみになると感じています。

 

 

 

 

深刻さとの距離の取り方を綴りました。

 

すぐさま効果が出るものではないのかもしれません。

 

続けるうちに少しずつ、氣がついた時にはすっかりと。そんな道なのかもしれません。

 

 

こころを感じる瞑想。

 

またこちらに綴っていけたらと感じています。

 

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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